加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(前篇)- 八 |
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日本の文化傳統、 如何にして切斷せられしや(前篇) 加藤淳平 八 マッカーサーとの直談判 歐米人が二重規準は、本性なるが如しと雖も、西歐人に比ぶれば、米國人は、歐米理念の普遍的適用を求め、二重規準に反撥する性向あり。但し米國人には、自らが思考を、普遍理念なりとて人に強ふる押付けがましさ、又有りて、他國人は迷惑す。 同時に米國人は、言葉、論理、法より、力を信奉する者なり。力を背景とし、強力に主張せば、意外に素直に二重規準を認め、是正する事あり。但し米國人の内、斯る柔軟性を有する者は、少數者に過ぎず。折衝相手を選ぶ必要あるは、論を俟たず。 マッカーサーは、優秀なる軍人にして、又父親の代より、亞洲の經験有りしに因り、米國人中の、柔軟性を備へし少數者に屬したるべし。日本人多數、渠に好意を抱きしは、無意識に、其を感じ取りし故ならん。現にマッカーサーは、上に擧げし、本國政府が九月六日付指令に、反對意見を具申し、指令通りに實行せず。 ポツダム宣言の實行を、米側に守らしむるには、重光が如く、マッカーサーと直談判する事、唯一の手段なりしか。然れども重光は、其の後間無くして辭任し、後任の外務大臣に、吉田茂就任す。吉田は機會主義者にして(注)、重光の氣骨無く、敢へてマッカーサーと直談判し、米國をして、ポツダム宣言を守らしむる意欲無し。重光が辭任に因りて、日本の外交らしき外交は終りぬ。 (注)吉田茂の過大評價は、今も續けど、漸く實像の知らるる機熟せり。若き頃、軍と對中國強硬派に近づき、其が推輓に因り外務次官となるも、岳父の牧野伸顯、自由主義者たりし爲、外務大臣就任を軍に阻まれ、以後反軍に轉ず。反軍の經歴により、敗戰後日本政治・外交の第一線に躍り出づ。占領軍との交渉に在りては、マッカーサーの喜ぶ事案は自ら取上げ、率先して會見に赴くも、渠が機嫌を害する恐れある事案は、下僚より申入れさせたりと言ふ。 ▼ 九へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |