加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(前篇)- 二十九 |
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日本の文化傳統、 如何にして切斷せられしや(前篇) 加藤淳平 二十九 占領の終了と「全面講和」運動 吉田茂は政治家たる見識に限界ありと雖も、優秀なる外交家なりき。國際情勢と米 國が意向を正確に判斷し、日本に有利なる講和を實現す。サンフランシスコ平和條約 締結は、吉田が政治・外交的成果なりき。七年の長期に亙りし米軍が日本占領は昭和 二十七年に終了し、日本は獨立を囘復せり。 吉田が判斷と出處進退に誤り無かりき。占領終結を他の何よりも優先させぬ。不平 等條約なる日米安保條約を結びしも、又臺灣なる國民黨政府を中國を代表せる政府と 認めしも、何れも、已むを得ざる米國への代償なりき。吉田は、日米安保條約を一人 のみにて署名し、汚名を甘受せり。 日本國内には「全面講和」を求むる運動盛んにして、其が指導者はかの南原繁なり き。南原は、米國側の諸國のみと講和するは適當ならずとて、米國と對立せるロシア 側なる國も含め講和せよと主張せり。然れども當時の國際情勢に在りては、「全面講 和」に固執するは占領を長引するのみなりき。吉田、南原を「曲學阿世」と呼びて非 難す。占領期に總司令部に協力し、勢威を振ひし南原の「全面講和」を主張せるは、 居心地好かりし占領時代の、更に續くを希望せる本心の露呈せるやとも疑はる。 「全面講和」運動は、學界を中心とせる米軍協力者と、其が影響下に「虐日的日本 觀」を信奉せる日本人が運動にして、南原、そが首魁なりき。渠等、日本社會が多數 派には非ざりしも、長き占領期の間に無視し得ざる勢力に育ちたり。 ▼ 三十へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |