加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(前篇)- 二十八 |
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日本の文化傳統、 如何にして切斷せられしや(前篇) 加藤淳平 二十八 「米國占領政策の變換」 占領初期の米國が占領政策は、國際情勢の推移に伴ひ徐々に變化し行きぬ。已に昭 和二十二年初めに、ヨーロッパの「冷戰」開始され、日本にても、日本共産黨、總司 令部が寵を失ひ始む。翌二十三年に入るや、米國が占領政策變換日本人にも感ぜら る。年末より翌年初めに掛け東京裁判終結し、刑は執行され、戰後諸改革一段落せ り。 昭和二十四年は、北大西洋條約成立し、日本にては松川事件等奇妙なる事件の頻發 せる年なりき。米國は、東アジアに於る日本が利用價値を認め、日本經濟再建を眞劍 に考慮するに至れり。 昭和二十五年の朝鮮戰爭勃發と、中國内戰に勝利せる中國共産黨政權が参戰とは、 米國の對日政策を決定的に變換せり。日本財界は朝鮮戰爭の勃發を「神風」と把へた り。此の戰爭は日本の經濟復興を齎せるのみに非ず。日本の政治にとりても、願ひて 叶はざる無き好機なりき。 米軍、韓國防衛の爲、在日兵力を全面的に朝鮮半島に移動せしむるを要せり。日本 の軍事的空白地帶となる危險生ず。米國、日本列島防衛の爲、日本の再軍備を要請せ り。占領期に強ひられし對米依存脱却と、憲法改正の好機訪れぬ。 然れども當時の吉田政權、此の機を十分に利用する能はざりき。「軍」と呼稱せざ る、「警察豫備隊」を創設せるのみにて、憲法を墨守せり。吉田、大局を見る眼無き 政治家が限界を露呈す。僅かに、米國との講和が早期實現に利用せるのみ。 ▼ 二十九へ ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |