加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(前篇)- 二十二
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日本の文化傳統、
     如何にして切斷せられしや(前篇)
                  加藤淳平


二十二 「虐日的日本觀」


 米軍の占領初期は、總司令部と日本の学界と共産黨が蜜月の時代なりき。三者の協力より、特異なる「虐日的日本觀」生れぬ。曰く、戰前の日本は遲れたる「封建的」 社會にして、内的矛盾を逸らさんが爲、戰爭を起せりと。曰く、敗戰と米占領軍が改革に因り、漸く「市民革命」を達成し「近代化」に向ふも、現代日本には、未だ「封 建的」要素多く殘存すと。日本を貶め、侮蔑せる日本觀なりき。主唱者ら、日本を虐ぐるに似たり。


 斯く日本を貶めたるは、國際共産黨が理論なれど、日本、アジアを蔑視せる米人將校と、日本社會を知らずして米人に迎合せる日本人學者ら、之に同調す。三者協力體 制より、日本共産黨の脱落せる後も、此の日本觀は米軍協力者に信奉され、言論と教育を通じ日本社會に廣まりぬ。


 米軍が檢閲による輿論誘導、米軍が戰爭罪惡感植付計畫の思考基盤と價値觀は、「虐日的日本觀」なりき。此の時期、日本の思想界を風靡せる先述の丸山理論、亦同 じ。


 但し「虐日的日本觀」は、占領期を通じ、日本社會全體に容易に滲透せるに非ず。信奉者は少數に過ぎず。信奉者が數の増大せるは、占領期終了の後なり。


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