加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(前篇)- 十六
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日本の文化傳統、
     如何にして切斷せられしや(前篇)
                  加藤淳平


十六 占領軍の檢閲と日本の檢閲


 占領期の米軍檢閲に就き、書かれし論文、書物には、日本報道機關、戰前・戰時中の檢閲に慣れたる爲、占領軍が檢閲も抵抗無く受け入れし旨記述し、又米軍檢閲は、其れ以前の檢閲に比ぶれば緩かなりきと説明するものあり(一例は、ジョン・ダ ワー、三浦陽一外訳『敗北を抱きしめて』下巻、第四部第十四章なり)。其は事實ならず。


 日本の政府、軍の施行せる、戰前・戰時中の檢閲は、占領軍が檢閲の如き、表向き存在せざる檢閲に非ず(注)。被檢閲者は、檢閲の存在自體の祕匿を、強制せらるる事無かりき。檢閲は、公認なりしに因り、被檢閲者は、不満有らば、裁判等に訴ふるを得たり。敍上の如く、日本人による檢閲なれば、嚴しさは緩和されたり。
(注)第二次大戰後、聯合軍のドイツにて實施せる檢閲も、其が存在は祕匿されず。


 日本敗戰後の、米占領軍が檢閲は、檢閲の存在自體祕匿され、被檢閲者に、救濟手段無し。異民族の檢閲には、些かの目零しも許されざりき。戰前・戰中の日本政府・軍の檢閲に比べ、遙かに嚴重にして、徹底せる檢閲なりしは明らかなり。今も、文筆家に、執筆禁忌事項の數多存す。日本人が心は荒廢し、足るを知る、愼ましき心は失はる。現代を生くる日本人に、古來の文化傳統の幾許か殘りたる。米占領軍が檢閲の嚴しさと、そが效果、今に見るを得るに非ずや。


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