逆旅舎>王蒼海:維納(ヰ゛ーン)故事 第六回
推奨環境:1024×768, IE5.5以上





維納故事  王蒼海



第六回・・墺宮の祕史珈琲に載せ  維府の密法菓子に鬪ふ


 扨、維城といへば、珈琲が世には名高し。歐州珈琲飮用の發祥の地なれば、珈琲茶樓(カフヱ)の市中に遍きこと、東京の如し。 やうやく米國式の使ひ捨て容器を用ゐる喫茶店も現はれたれど、味氣の無さの故か、左程の人氣にも非ず。 また、珈琲の價格の低廉なること、東京の比に非ず。


 城内最も格式を誇る珈琲茶樓は、ザッハー・ホテルならむ。赤銅の小鍋にて供する土耳古式珈琲は歐州珈琲道の宗家に相應しきものなり。 さらに、名にし負ふザッハー・トルテの甘きこと蜜の如し。これを以て苦きこと千振湯の如き土耳古式珈琲の茶請けとなすは丁度良し。 珈琲を頼まば、銀の手盆に珈琲碗と硝子盃(コツプ)に水を汲みて供するなり。 硝子杯(コツプ)の口には銀の匙を滑らぬやうに差し渡して供する樣、如何にも古風なり。 家具調度も赤の天鵞絨に金の漆にて宮廷を眞似たるありさま、遙か日本の昔の喫茶店の範とせしものなり。 維納はアルプの水を引きて水道に供すものにして、珈琲、茶の美味なるは水のよろしきためもあらん。


 珈琲茶館も老舖なれば常連の席決まりて一見は一寸入りづらきが難なるも、 茶先生(ヘル オオバア)の案内にまかせ、 小新聞を片手に泰然と茶を啜れば宜しき也。


 基隆田街道にも舊皇室御用達の珈琲茶館許多あり。多く特色のある菓子點心を供するなり。 帝國猪口麗糖舖たるデーメルにゆかば、猪口麗糖の種類の多きこと、驚くべき程にて、又、 帝國砂糖菓子舖ゲルストナアにゆかば皇后エリザベトの愛せる菫華糖あり。菫の花をそのまま砂糖漬けにせる者なり。


 捻くれ者の遊子は老舖よりも寧ろ近所なる小さき菓子輔を愛し、秋ともならば一個一欧元の栗猪口を愛する者なり。 また、陋巷の寂れたる珈琲館は一日韜晦するにふさはしき物にして、午ともならば粟團子汁(クヌヱデルズッペ)などの定食も廉價にして美味也。 ザッハー・トルテは人口に膾炙するものなれど、今の世には、やや甘すぎるものなり。 これは、昔メッテルニッヒが所望したものと傳へ、阿弗利加より輸入したるカカオ豆を惜しみなく使ふものにして、得難きものならむ。 この菓子に傳説有り、納粹の維城に迫るや、ザッハー家當主、この菓子の祕法の特許を讓りて國外に亡命したり。 その祕法の廣まるに、戰後の太平戻るや、その祕法を取り戻さんとし、模倣を禁ずる訴訟を起こしたりとぞ。 ザッハー・トルテの既に人口に膾炙して、壟斷せしめること人民の義憤私怨とならんことを懼れたる裁判所の大岡裁きにて、 中の餡は橘子醤(マアマレエド)にして、カステラを三層とし、猪口麗糖を掛けたるもののみを元祖ザッハー・トルテとし、 その他は沙汰の限りに非ずとせる由なり。


 真に菓子の元祖は王侯なり。例へれば、維納菓子の一種に「エステルハージートルテ」あり。 洪牙利王侯のエステルハージー家の創製なり。カステラを白き猪口麗糖にて固め、上に褐色の猪口麗糖にて細かな網目模樣を描くものなり。 網目が細かければ細かきほど、良きものの如し。


 嘗てあめりかに遊びし折、米式珈琲なきを見て大いに驚きしかど、維城にては、維城珈琲と稱すものなきにも驚きたり。 珈琲の種類多くして、一言以つて覆ふことは不可能なれば也。最も普通なるものは、メランジェと稱するものにして、 珈琲に泡立てたる牛乳を乘せたるものなり。これが転變して東京の喫茶店の維城珈琲となるか。モッカと稱せばこれは黒珈琲なり。 ブラウナアといはば、茶色とて黒珈琲にやや牛乳を混ぜたものなり。 「一條鞭」(アインシュペーナー)といはば東京の喫茶店の珈琲盃霏の如く、また、「氷珈琲」(アイスコオヒイ)と言はば、 冷珈琲にあらず、珈琲浮露(コオヒイフロオト)也。カプチノといはば、ブラウナアに近しといへどもやや褐色にして、 天邊に泡立てる牛乳を乘せるものなり。


 されば、カプチノの色の本家を確かめんには、基隆田街道より横丁を外れて、カプツィン修道院を訪問すべし。 壁の色褐色にして、僧衣もまた褐色、この色を採りて、カプチノといふ由なり。このカプツィン修道院は、王陵といふべく、 歴代帝王の靈柩を祭るものなり。ハプスブルク王家に不思議なる習慣有り、死後、腑分けをなし、 心臟を宮中なるアウグスティーナー寺院に奉じ、その他の臟腑を國家宗廟たるシュテファン聖堂に納め、 遺骸はこの王陵たるカプツィン修道院に納むといふ。珈琲にすら王家の祕史を載せるとせば、維納の事物の薀蓄の深く、 無意識裡に象徴の飛び交ふこと、遊子の管見の及ぶべくも無し。


▼ [維納故事]第七回へ
▼「逆旅舎」表紙へ戻る
▼「文語の苑」表紙へ戻る