逆旅舎>王蒼海:維納(ヰ゛ーン)故事 第三回
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維納故事  王蒼海



第三回・・賢王薨去して命數空しく、聖主夢に卜い版圖を擴ぐ


 扨、哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝が陣沒せるのは、當時一城塞たりし維納とも傳ふ。羅馬随一の賢帝の小邑に薨去するとは轉た凄愴たるものあり、儀本の是以つて羅馬帝國の衰亡の兆しとするも宜なるかな。維納が漸く都市(Municipium)に列したるは紀元二百十三年にて帝の沒後三十有餘年のこと、後漢の建安年中のことなり。


 東西兩帝國の命數、軌を一にすることこそ面白けれ。「維納工藝文化事典」(Wien Kunst und Kultur Lexikon)に據れば、羅馬公文書に殘る維納の記述の最後は紀元四百年也。紀元三百九十五年、天然の長城たりし多瑙江防衞綫の失陷後、維納は戎馬の侵掠に任され、荒廢に歸すと知らる。その後は、教會の寺傳の聊か殘るのみにして以つて徴するに足らず。


 歐州の歴史の特質、一に有爲轉變の激しきにあり。恰も國土は街道に似て、秋移れば、人主悉く代はり、國境綫も地名も國民名も變はりて蕩然として存するなし。とはいへ、事物に鑑みればなほ徴するに足るものあり。維納にて羅馬の遺風と稱する物、三有り。一に、温泉にして、維納南郊バアデンに羅馬浴場あり、老若男女の憇ふところと爲る。二に、建築にして、羅馬樣式なる教會、寺傳に拠つて羅馬の遺跡と称す。三に、葡萄酒にして、巷間、プロブス帝が羅馬より葡萄樹を此地に齎し、釀造法を教ゆと傳説す。


 聞くならくは、今も學校にて羅甸語を正課として教ふること嚴に、課業の時間は獨逸よりも多しと。ただ、歴史に鑑みるに、羅馬帝国の正統を践むと稱する神聖羅馬帝国の首府となりしことを見たれば、羅馬傳來と稱す者、後世の好古家の附會も亦多かるべし。


 維納が歴史の舞台に再度登場するは、「鹽城年代記」に、紀元八百八十一年、洪牙利と會戰せる地として記さるを待たざるべからず。都市として恢復するは、更に紀元千百三十五年、東方邊境伯レオポルド三世が維納を居城と為す迄詳らかならず。その後ホイジンガアの謂ふ「中世の秋」に至りて、リチャアド獅子心王の身代金を以て漸く城壁備わり都市の體を成す。洪牙利の慰撫鎭護に東方伯が當たる事既に久しきに及びぬ。欧州の大都市としてはさに古きものに非ず。


 レオポルド三世は、クロスタアノイブルク寺院の施主にして、聖人に列し、今もその肖像を木版に刷り、護符と爲す。寺傳に曰はく、伯の成婚の時、妃の面紗、突風に奪われ、杳として行くところを知らず、九年の後、維納郊外にその面紗を拾へり。其の夜、夢に神告あり、面紗の落つる處、必ず聖地にして寺院を興すべしと。伯、忽ちにして伽藍を修して、歴代皇帝是を莊嚴して今に殘れり。蓋し、伯は順ろはぬ洪牙利の勢力下に遷都するに先立ち、神託によるとして維納の北に寺院を建て、民心を靖んぜしものなるべし。


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