逆旅舎>王蒼海:維納(ヰ゛ーン)故事 第二回
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維納故事  王蒼海



◆第二回・・大秦皇帝の遺著を証し、太平逸民の故居を訪れる


 維納市内の一角は、羅馬帝國の兵營たり。今に至るも、その壕の跡は、深壕街(Tiefer Graben)と言ひ、地名と地形にこれを徴すること可也。又、舊王宮の前に羅馬遺跡あり、此れを初めて見たる折は、眞に感慨あり。


 謹んで岡崎久彦大人の著書を按ずるに、「回教の歴史を鑑みるには、儀本(Gibon)の羅馬帝國衰亡史を讀むに如かず」と。愚考するに、況や歐州の歴史を稽へるに於いてをやと言ふことならむ。嘗て北京商務印書館より出版の漢譯本を入手せしことに思ひ至り、物置にて紙魚を追い埃を拂ひて段ボオルの筐底より出し、飜し讀めり。歐州に寓居してこれを讀むは面白きこと、嘗て長安に遊びて史記漢書の斷章を讀みしが如し。


 史書に鑑みるに、羅馬時代、維納は畢竟兵營駐屯の支城に如かず、本城は別にあり、今もカルヌントゥムなる廢墟ありと。一日、車を驅けりて廢墟を探勝せり。多瑙江を下り、維納飛行場のやや先、その遺跡を見つけたり。


 カルヌントゥム(Carnuntum)の周圍數里を車で驅けるに、穀倉平野を後背にして、ボヘミア更には北海に通ずる峠を制し、また洪牙利に流るる多瑙江の東西の水運を扼す戰略要衝にして、四通八達と謂ふ可く、羅馬人の地を卜ふことの巧みなるを知る。


 嘗ては人口數萬人の一大都會なりしが、今は寥寥たる麥畑なり。ただ、廣壯なる匈奴門(Haidentor)が辛うじて崩れず殘り、徃時の羅馬精鋭軍團の戰勝凱旋の盛儀を傳へるのみにして、桑田滄海の感慨まことに無量也。


 又、劇場(Amphitheatre)跡などもあり、廣大なるも僅かに礎石を殘す許りにて、遊客の尋ねるも稀なり。寧ろ最も人氣のあるは、市街地の一角を其の儘掘り出したる所にて、博物館となれり。遊客は、羅馬の道の石疊を歩み、浴場跡の浴槽を覗き、神祕なる月神殿の祭壇に登り、又一般家屋の意外に便利にて良い暮らしなるに贊嘆せり。


 羅馬の一般家屋は、矢張り北京の四合院に似て、周圍に壁を配し、外より伺へぬ樣にしたるものなり。竈と兼用の温突(オンドル)の跡もあり、益々以つて似たもの也。北狄入寇迄の参百年の太平を謳歌したること明きらかなり。


 カルヌントゥムは、墺太利、洪牙利の一部を版図とせる上パンノニア州の州都にして、日耳曼(Germania)と對峙する最重要據點たり。羅馬の哲人賢帝と稱さるマルクス・アウレリウス・アントニヌス、日耳曼征討の師を率い、嘗て此地に至り、陣中に「自省録」第二章を著はす。帝の箴言に、「人生は、浴場の水に似て、汗、垢、脂その他の汚きものに滿たされたるもの也」との句あり、其の跡をまさに此處にて徴すること可也。嘗て漢に使節を送りし大秦王安敦とは彼のこと也と云ふ。北狄を挟撃せんとせしか、帝の深慮遠謀、天下に及ぶと云ふ可し。惜しむらくは恰も漢室も衰微して、其の鴻圖に應へる術なかりしを。紀元百八十年マルクス帝の陣沒後、不肖の王子が即位し、暴虐亂倫の限りを盡くし、遂に侍衞が弑逆に及び、その後、近衞禁軍による帝位競賣などの悲喜劇は、儀本に詳し。遂にカルヌントゥム駐留の阿弗利加人軍團長、セウヱルス、難を靖んじ、國を救はんと叛旗を飜し、十日にて多瑙の要衝カルヌントゥムより羅馬に兵を進め、帝位を簒奪せしこと、史書に明らかなり。


 畢竟、栄枯盛衰は洋の東西を問はず。誰かセウヱルスを曹操に喩へて違和感を感ずる哉?


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