逆旅舎>王蒼海:維納(ヰ゛ーン)故事 第十一回
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維納故事  王蒼海



第拾壹回・・春畝公、維城に至るの證 納粹黨、書庫を檢むの印


 春畝先生伊藤博文公爵、一八八二年八月維城を訪れ、ローレンツ・フォン・シュタイン博士に國家學(Staatswissenschaft) を習ふこと、史書にあり。フォン・シュタイン博士は、維納大學の教授にして、當時歐州の大碩學なり。しかるに、 その國家學の内容とは如何、詳らかならざれど、一日國立圖書館に至らば良き論文 (Wilhelm Brauneder/Kaname Kawashima,"Lorenz von Steins "Bemerkungen ueber Verfassung und Verwaltung" von 1889.")あり。 鑑みるにフォン・シュタイン博士の春畝公に傳へんとしたる妙諦二つあり。一つに、「歐州の英、佛、獨はそれぞれ別の制度有り。 日本はその傳統と國情に從ひ、自ら憲法を制定すべき也」と。これは各々がその良心に從ひて至善をなすべしとのカント主義的考へ方 の背景にあらむか、度量の廣寛なるに公はさぞ感銘を受けしことならむ。帝政にても共和制にても法治は可能なりとて、 博士は東方の非立憲國に決して價値觀を押し付けず、「社會學」にて日本社會を分析せば、自然と良き制度は生まれんとの 方法論を教へたり。東洋にも「漢家自ずから制度有り」と、儒者の理念的政治を退けんとしたる故事は史記にあり、 東洋にも「漢家自ずから制度有り」と、儒者の理念的政治を退けんとした故事は史記にあり、新の王莽の簒奪と失政はこの理念先行にしあれば、春畝公はこの 消息を直ちに理解せしものならむ。


 妙諦の二は、「日本の社會は歐州の如く複雜にあらず、國家の發展は至極容易也」とのことなり。帝權と教皇權が爭ひ、 封建諸侯と市民が鬪爭せる歐州の現状を諳んじるフォン・シュタイン博士の忠言に、内憂外患に惱める明治の指導者は激勵せられたり と思はる。博士より、英國の立憲君主主義の淵源は畢竟國王の特權と議會との對立と妥協にありとの説明あり、 外國制度の必ずしも拳拳服膺すべきものにあらずといふは今人にも通用する至理といふべし。 博士の國家學は寔に十九世紀歐州人文主義の精華也。


 春畝公の維城に至れることを考證せむと、一日、墺國國立公文書館に行きけり。帝政時代の外交文書、 几帳面に紙綴じに保存されたり。帝國官吏の精勵を知る。日本關係の文書を借り受けて仔細に讀むに、 明治初年、春畝公、岩倉使節團の随行大使として墺洪帝國を訪問せし折、一八七三年六月八日日曜日午後一時に皇帝フランツ・ ヨーゼフの謁見を賜る一行名簿の一として氏名の記録これあり。その日の通譯はシイボルト氏也。


 さても不思議なることに、この岩倉使節の外交古文書の欄外に、鍵十字の印章これあり。印章には龜の子文字 (フラクトゥル)にて「haus-, hof- und Staatsarchif」と有り、獨墺合併後、舊宮中竝びに官廳文書を引き繼ぎたる證ならむ。 一種の戰慄を覺へざるべからず。また、さらに二枚目の欄外に「一九四四年三月、ロレンツ博士之を閲覽す」と手書きに記し、 その上に又も鍵十字の印章あり。大戰末期に何の爲にか納粹黨は古文書を改めしものならむ。はた戰中に閑日月ありしか。


 その他、紙綴じには歴代日本大使の信任状なども殘れり。我が方の外交文書は明治年間にありては悉く佛文にして、 その影響にて、日本語正文にても例へば「フランツ・ヨオゼフ」帝を「フランソワ・ジョセフ」と呼びかけをることもあり。 明治期には、我が帝號を「天皇」と稱さず、「皇帝」と稱せることなど、興味深きこと、枚擧に暇なし。


 公文書館閲覽室にて筆記を取りつつ贊嘆するに、やや日も暮れなんとし、讀了を急がば、最後の項目に及べり。 そこには、第一次世界大戰勃發時、墺國皇帝より本朝大正帝に宛てられたる郵便親書ありき。封筒を子細に見るに、 瑞西經由の消印あれども、戰亂激しく郵遞の途絶せるか、受け取りを拒絶されたるか、何れにせよ返送されたるものの如し。 その封筒は九十年の歳月を經てもなお開封されず、既に本朝は大正昭和平成と三代を改めるに至れり。戰を宣せむとせしか、 中立を求めんとせしか、好誼を通ぜんとせしか、今に至りては知る術もなし。紙綴じを結びて、空しく歸るのみ。 眞に歐州の人と歴史には、複雜なものあり。我が國は猶ほ天眞に似たり。  


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