逆旅舎>泰通信 第二十九號
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泰通信 (第二十九號)


         平成十九年十月  大口 憧遊


最後の大川塾生逝く


 人道に徹せよ、亞細亞人の友達を作れ……大川先生は斯く教へき――病床にて一語一語しぼり出す如く語りし住田勳(すみだ・いさを)氏遂に逝く。八十六歳。九月十八日、盤谷市内の自宅にて一人娘千鶴子氏(スミタ・カルチャー・センター代表)に看取られての大往生なりき。「白人支配よりのアジア解放」を掲げし大川周明(*1)の青年養成機關「大川塾」の一期生なりき。


 大正十年四月、廣島縣舟木村に出生、昭和十三年、縣立忠海(ただのうみ)中學校(池田勇人元首相、平山郁夫畫伯の母校)より東京・新橋の大川塾に入所。二年間、英佛泰馬來語等を學ぶ。歐米の世界侵略史は大川所長自ら講ず。中央線阿佐ヶ谷近くの瑞光寮寮長は五・一五事件(*2)の實行部隊長、山岸宏海軍大尉なりき。


 昭和十五年、大川塾より派遣せられ同期生一名と泰國へ。十九歳、日本軍の佛領印度支那(越南)進駐直前なりき。翌十六年、サイゴンの陸軍南方軍司令部付通譯官に任命され、太平洋戰爭勃發の十二月八日、カンボジアより泰へ進駐する陸軍の先導車輛に乘込み、泰軍警備兵と緊迫の交渉をしつつ盤谷進駐を果す。二十歳なりき。


 翌昭和十七年、大川塾生數名とビルマ獨立義勇軍に參加、首都ラングーンへの途中、志と異る苛烈なる體驗をせり。即ち日本軍少佐に日本刀による英軍捕虜の試し切りを命ぜられ、この命令を拒否す。されどその直後、英軍捕虜を後手にしばりビルマ兵に追はせ銃劍にて刺殺する訓練現場近くに居合せ、英兵斷末魔の叫び聲を聞く。此の如き日本軍の方針と相容れざるものあり、他の塾生と共にビルマ義勇軍を去る(三年後、無謀なるインパール作戰=*3=の失敗によりビルマ義勇軍は英軍へ寢返る)。


 昭和十九年十月、盤谷の新聞社に働くうち召集を受け現地陸軍に入隊、二十三歳なり。その十ケ月後に終戰となり、他の大川塾生と共にバンクワン刑務所へ收容、更に戰犯容疑にてシンガポール・チャンギー刑務所へ。


 昭和二十二年二月、容疑晴れて歸國、二十六歳なりき。昭和二十六年大川塾同期生の姉と結婚、數年後に千鶴子さん誕生。大川邸の管理人を務めし頃、幼き千鶴子を抱く周明氏の姿もありきとぞ。


 昭和三十二年、泰語の知識を買はれ再び泰に渡り、廣告代理業、印刷業等を營む。以後は家族と共に泰と泰人を愛し、千鶴子氏らによる山村小學校への學用品寄贈運動を援く。


 泰生れの朝日新聞アジア總局顧問・瀬戸正夫氏によれば、大川塾生九名は陸軍情報部「南機關」に組込まれビルマ義勇軍に入りしものにして、住田氏は泰に於ける最後の塾生なるらむといふ。また作家・岩城雄次郎氏、泰國日本人會會長・小野雅司氏等によれば、なほ存命と傳ふる元日本兵は住田氏亡き後、五六名なりといふ。


 戰後六十餘年、亞細亞人の友を作れとの大川周明の教へは、今や多くの在泰邦人に引繼がれ實を結びつゝありと云はんか。


(此の記事は泰國邦人紙 The Voice Mail 連載「タイに生きて」、荻原康昭『タイの熱い風』等を參考にせり)


*1 大川周明(一八八六〜一九五七) 昭和初期の國家主 義者。白人支配に苦しむ亞細亞民族の解放を主張。東京裁判にて民間人唯一のA級戰犯となるが精神異常と判定され不起訴。
*2 五・一五事件 昭和七年五月十五日に起りし海軍將 校らによるクーデター未遂事件。首相官邸を襲ひ、犬養毅首相を射殺す。
*3 インパール作戰 大東亞戰爭末期、印度駐留英軍の據點インパール攻略を目指す作戰。十分な補給もなく強行、投入兵力八萬六千人の大半を傷病餓死にて失ふ。史上最大の愚行とされ、泰へ至る千粁の敗走路を「白骨街道」と呼ぶ。


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