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泰通信 (第十四號)


         平成十七年十一月  大口 童遊


運命の相手 クーカム Kuukham


 泰人ならば誰も知る、しかし日本にては誰も知らぬ不思議なる日本人あり。名前はコボリ(小堀)。但し實在の人物に非ず、小説の主人公なり。泰の女流作家トムヤンティ女史(一九三七年生れ)の一九六九年に發表せる小説『クーカム』(*)は空前の成功を得、これまでにテレビドラマ化三度、映畫化三度なり。  


 昭和二十年代、菊田一夫作の連續ラジオドラマ「君の名は」は、放送時間に女湯を空にしたる傳説あり。『クーカム』のテレビドラマも、特に一九九五年、國民的スター・トンチャイのコボリを演じたることにてブームとなり、ドラマの放映時間は、泰中の屋臺より女性の姿消えたりといふ。  


 物語は大東亞戰爭末期、盤谷に駐留せる日本海軍の小堀大尉と泰の美少女アンスマリンとの間の悲戀なり。小堀大尉、偶々アンスマリンと出會ひて戀に落ちしが、大尉の叔父は日本軍司令官、アンスマリンの實父は泰の有力者なれば、日泰親善の好見本として政治的に利用せられ二人の結婚話進めり。誇り高きアンスマリンは、父の命により已むなく結婚を承諾すれど、事實上の占領軍なる日本軍に反感を抱き、子まで宿しながらも、夫小堀を愛すまじと心に誓ふ。されど小堀は純粹誠實なる愛を注ぎ續け、物語のクライマックスにて遂にアンスマリンも「コボリ、汝を眞に愛す」と告白、小堀も滿足げにうなづくも、小堀は英空軍の空襲による瓦礫の破片を背中に受け、あと一時間の命なり。  


 歌舞伎の名場面の如くこの粗筋を知悉する泰人女性なれど、みな堪へきれず大いに泣く。  


 かかる泰の國民的メロドラマに於て主人公の日本軍將校なるは奇しきことならずや。中國、南北朝鮮、フィリピン、マレーシア、インドネシア等、亞細亞の他の國にては有り得ぬ事と言ふべきなり。  


 この一事をもつて泰人の日本に對する感情を判斷するは早計ならむ。日本駐留軍の威張りたる樣はこの物語の中にても語らる。現在の日系企業の駐在社員等は高價なるマンションに住み、泰人の女中、運轉手を頤使す。日本人をバナナに例ふる泰人あり。「皮膚は黄色なれど、中身は白人なり」と。  


 されど泰人の日本人に對する好感情、この物語に表れたることも明白なり。テレビドラマ放映當時は、街行く日本人は泰人より屡々「コボリ」と呼ばれしとぞ。


 再来年の日泰修交宣言調印百二十年へ向け、初の日泰合作映畫の企畫も傳へ聞く。小堀も初めて日本人俳優演ずるとならば、日本にても、韓流以來の新たなる風起るやもしれず。


クーカムは「運命の相手」の意なれど、日本語譯にては『メナムの殘照』の題にて角川文庫に抄譯、大同生命國際文化基金より全譯(一九五五年、西野順治郎・元泰國日本人會會長譯)刊行せらる。


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