愛甲次郎◆中国紀行
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『中国紀行』(平成十六年五月) 愛甲次郎


  第七回


◆ 五月六日


 八時宜昌に着き、朝食の後下船す。宜昌より荊州を経て武漢に向ふ国道は、三峡ダム建設のため造り成せるものにして必ずしも充分に平坦ならず。途中休憩所のあることなし。車の揺れ激しければ午睡、瞑想を妨ぐるのみならず遂に人をして舌端を噛ましむ。車窓に見ゆる並木萋々として新緑に映え欧米の高速道路を往く心地ぞすなる。


 約一時間半にして荊州なり。荊州古城に遺れる城壁濠を回らし芝生青くして欧州の景色かと怪しむ。磚を整然と積上げたる城壁は清朝の再建になるものと聞く。黄、薄緑、橙色の旗幟十三本楼上に翻る。往時ならば守将の名鮮かに記載しありけむ。楼閣の中に旧城の地図あり。城を東西に二分し外城、内城と為す。楚の時代より敵は東の呉なれば外城は東に面し防備を事とし、内城は西にあり政治行政の場なり。過年訪れし山西省平遙の古城に比し規模は小なれど、関羽の故事もありて印象浅からず。されど関帝の怨既に古りにしや陰惨なる印象全く無し。


 武漢は長江、漢水により漢口、漢陽、武昌に三分され、古より武漢三鎮として知られたり。湖北省の省都なり。漢陽方面より接近す。漢陽近年外国自動車企業の投資盛んにして、政治の武昌、経済の漢口に対し工業を以て鳴る。武漢にて見るべきは何をおきても黄鶴楼とて之を目指す。


 黄鶴楼は長江大橋の武昌側の袂にあり。再訪なれど楼に纏はる故事此度初て知る。この地嘗て酒店あり。老道士女主人に酒を乞ふ。道士橘皮を取りて店の壁に鶴の絵を描き以て謝礼と為す。奇怪なるかな、黄鶴幸運を呼びて酒店繁盛巨富を積むを得たり。女主人冨を得て却て吝嗇となり衆人の恨を買ふ。一日道士来たり、黄鶴に乗りて虚空に去り再び還ることなし。老女之を悔いて一の祠を建てぬ。これ黄鶴楼の起りなり。


 「昔人已乗黄鶴去 此地空余黄鶴楼 黄鶴一去不復返 白雲千載空悠々」


 舟運を観察するに絶好の要衝なれば呉の周瑜之を望楼と為し、後人これに倣ふ。改築を重ね楼は愈々高く趣を増すに至れり。文人の訪れ繁く楼上に詩情を催す。唐の李白将に詩を題せんとして崔の詩を見るに及び嘆じて筆を擱く。崔の詩は本邦には広く知られざるも漢人は以て黄鶴楼第一の詩と為す。よって以下に記すべし。


 「昔人已乗黄鶴去 此地空餘黄鶴樓 黄鶴一去不復返 白雲千載空悠々


 晴川歴々漢陽樹 芳草萋々鸚鵡洲 日暮郷関何処是 煙波江上使人愁」


 李白の詩「故人西辞黄鶴楼」人口に膾炙せるが故に特に記さず。


 黄鶴楼を辞し長江大橋を渡る。これ揚子江に最初に掛かれる鉄橋にして露人の協力に依りて成る。竣工に当り毛沢東武漢を訪れ長江を遊泳せしこと夙に知らる。橋は二段にして上段は自動車用、下段を鉄道用と為す。漢陽に渡り鸚鵡洲を回りて晴川なるホリデイインに到る。当日の宿舎なり。外観は壮麗なれども運営上問題なしとせず。シャワーは利かず、バスタブに栓なく、加へてタオルなし。二階の個室にて夕食を摂る。例により豪華にして美味なれども卓に彼の武昌魚なく、改めて追加す。同じく高名なる東湖酒は入手する能はず。飯店到る処結婚の祝宴にて喧騒耳を聾す。昨年サーズ騒ぎにて結婚の儀餘儀なく本年に持ち越せるが故に宴多しと言ふ。



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