愛甲次郎◆中国紀行
推奨環境:1024×768, IE5.5以上




『中国紀行』(平成十六年五月) 愛甲次郎


  第六回


◆ 五月五日


 五時四十五分起床、洗面の後着替へて甲板に出づ。二三の男静かに身体を動かすは太 極拳か。更に上甲板に昇れば今し朝日の将に山の端を離れむとすなり。赤き円盤は目 に眩しからず、一幅の絵を見るが如し。七時半には食堂開き、軽く朝食を済ませたる 後部屋にて奉節到着を待つ。奉節は白帝城所在の県なり。


 下船後白帝城に至る途は二なり。一は駕籠により、二は小船及び索道による。我等二 によることとし小船に乗り込む。こは鉄製の奴隷船の如き代物にて座席を得たる者は 幸運なり。須臾にして白帝城の船着場に着けり。索道は二人掛にして急斜面の若葉の 上を行く。足下の長江は広大なる淵の如く、珈琲色なりし水はやや澄みて緑がかりて 澱むなり。白帝城なる額を戴ける白壁の門を潜りて石段を上る。


 境内は白壁に仕切らるる幾つかの中庭あり、単純な作りの家屋立ち並ぶ。堂内に等身 よりは大なる人形を並べ、劉備孤を托すの場景を展示す。床に臥したる劉備の前に侍 立する諸葛亮、二人の小児は伏して彼を拝す。沈痛なる面持ちの武将数人周囲を守 る。この堂の更に奥に劉備、諸葛亮、関羽、張飛の坐像を祀る堂あり。この廟の中心 なるべし。かの有名なる李白の「朝辞白帝彩雲間」の詩、毛沢東と周恩来による二幅 の書を相並べたるはいと興味深し。両者の性格自づと現るるなり。他に三峡より出土 せる遺物、或は太古原住民絶壁に穴を穿ちて棺を納めたるの写真など展示せられた り。木陰の池より白塗りの龍の巨像将に天を指して登らんとす。伝説に言ふ。後漢の 初この地方の太守公孫述此処に一城を築き私に皇帝を称し勢威を揮ふ。一日城の井戸 より白き霧立昇りその様宛ら龍の天翔くるに似たり。之を瑞兆と為し自らを白帝と呼 ばしむ。白帝その命運長く続かずして光武帝の討伐に遭ふと。名のみ残りて今日に至 れり。


 約十年前三峡を下りし折は、あれぞ古の白帝城なると人の示したる、遺跡と見ゆる物 の高き山頂に懸かれるを辛うじて認めたるのみ。当時は今見る施設はすべて存せず、 爾後観光当局により整備せられたるものに非ずやと秘かに思ふ。見物を終へ船着場を 発たむとするに、三隻の小船観光客の大群を満載して到着す。一足違ひにて混雑を免 るるの好運を喜ぶ。十時前には帰船、船は三峡の第一なるクトウ峡に向ふ。行けども 行けども両岸の高みに七、八階建ての白亜の住宅群の建設中なるを見る。その下の船 着場に近き辺り、造り成されたる施設冬季には大量の貯炭可能なるべし。三峡ダム計 画総工費の三分の一は水没地区の農民の移転費用なりと聞き及ぶも当にうべなるか な。かかる人々如何にたつきを得べきやと宮本氏の怪しむことしきりなり。約二時間 を費してクトウ峡を過ぎ、幽深秀麗を謳はるる巫峡に入る。


 神農渓は巫峡に注ぐ長江の支流にして景勝なり。二階建の遊覧船に乗換へ渓谷を遡 る。両岸の絶壁の間を往く。渓谷を遡るにつれ水は澄明度を増し緑薄くなり行く。奇 岩現はれその一を神女峰と名づく。岸壁の高みに懸棺ありとのアナウンス。やがて見 晴らし良き所に出で、流れは緩やかに淵の如くなりぬ。船着場ありて上方に見晴台と 覚しき建物見ゆ。この船着場にて更に小舟に乗換へ、淵に注ぐ急流を遡る。舟は三人 掛の腰掛六も並ぶかといふ小舟にして六人の船頭これを操る、罍夫と呼ぶ由なり。浅瀬となるや四人の若者舟を離れて竹製の綱にてこれを曳く。覚えずヴォルガの舟歌憶ひ出でぬ。船頭もガイドも土地の少数民族にして日に焼け身軽なる こと猿の如し。流れ石を洗ふ早瀬に至れば水は清く澄み日本の川に異ならず。爽やか なる風川を渡る。帰途既に外は陽の傾きたるにや渓谷の中は光弱まり風いと涼し。谷 あひより日の当る岸壁の時折姿を現すなり。遊覧船の中は拡声器より流るる音曲のか まびすしく雰囲気を損なふこと甚だし。帰船の後程なく三峡最後の西陵峡に差し掛か り、夕餉の時刻となる。三峡ダム通過を報らすべしとガイドに依頼し寝室へ退く。


 八時ごろか電話を受け甲板に上る。人影は未だ多からざれども船は既に閘門水路の間 を動きつつあり。水路の両側の壁触れむとせば触るるを得べし。満月中天に懸り静か なる感動を覚ゆなり。閘門の開く様見んと暫し甲板上の鞦韆に坐して待てども船の停 りたる後も何時かな開く様子なし。寒気を感じて船室に戻る。夜半目覚めてカーテン を開けば船は既に閘門を通過し、ダムは数多の灯火に照らされて遙か後方にあり。



▼ 第七回へ
▼「逆旅舎」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る