愛甲次郎◆中国紀行
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『中国紀行』(平成十六年五月) 愛甲次郎


  第四回


◆ 五月三日



 済南別名を泉城と為す。泰山より流れ下る水、北麓の済南地域に堰かれ幾多の泉となりて湧出するが故なり。天安門に亜ぎ全国第二の規模を誇る広場に隣接して突泉あり。一帯は整備行き届きたる公園を成し到る処涌泉あり。夜来の雨に洗はれし背低き槐樹の数々若葉茂りて、石畳も未だ乾きやらず。公園の入口近く漱玉泉あり。宋代女流詩人李清照に因む泉なり。中国には珍しく清く澄める泉底に衆人の投げ入れたる貨幣鈍く光る。畔の碑に「漱石枕流」の句刻まれたり。その故如何なるか知らず。泉の傍に李清照記念堂あり。回廊に掲げられたる詞の一つ「昨夜雨疏風驟、濃睡不消残酒、試問巻坏人、却道“海棠依旧”。“知否?知否?応是緑肥紅痩。”」意味必ずしも明かならざれども興起こり売店にて女史の詩集を求む。金との戦に夫を失ひて詩人の詩風一変し愛国の烈情人心を打つに至れりと言ふ。


 突泉は天下第一泉を号す。水量豊富にして青みを帯び泉央に三箇所渦を成して水湧返るを見る。古へは噴水三尺に及び噴音半里を隔て尚聞くを得しとぞ。ホウ突と名付けらるる所以なり。春秋に見ゆる「斉公に魯公と会せり」の記述は此処を指す。


 労働節の休暇なれば訪ふ地元の人多く、写真撮らむと人に中るも些かも意に介せず、傍若無人とは当にこの事なり。肩掛を頸に巻きても肌寒く洟の垂るれば上を向きて歩を進めぬ。再び車乗、大明湖に向ふ。湖に着くも気分勝れざれば独り車中に残りて虚空蔵菩薩の真言を唱ふ。


 済南の最後の訪問地として市の北端を流るる黄河を目指す。過年河南省の鄭州に黄河 の中洲を訪れし時下流の水涸るるを認めたり。されば更に川下の済南なれば定めし徒 渉も可なるべしと思ひしに案に相違して水量少なからず。二年前は水涸れ徒歩にて正 に渡り得たるも、その後中央政府黄河管理委員会を設け流域各省の取水量を規制する に及び流水旧に復しつつありと言ふ。善政の恵沢かくの如し。彼方に百年前独逸人の 建てたる鉄橋の残るを見る。遠からず大改修行はるべし。


 二時四十分の国内便にて重慶に飛ぶ。重慶の空港その施設結構なれども当地の人既に 手狭なりとし、隣接して新空港を建設中なり。我等乗るマイクロバスは一路重慶市の 中心を目指す。道路の両側の丘陵と言ふ丘陵に高樓大廈の林立するを見る。十年足ら ず前に訪れし折とは様変りなり。日没まで未だ時間あればマリオット飯店に入るに先 立ち鵞嶺公園を訪ふ。重慶は長江と嘉陵江により三分され多くの鉄橋にて結ばる。市 内高低の差著しく到る所急坂なり。旧市街の最も高き地点に鵞嶺公園あり、峰の姿鵞 鳥に似たればその名を得と言ふ。元は一富豪の所有なれど国民党政府重慶を首都と為 すに及び蒋介石総統の公邸となれり。宋美齢夫人パーティーを開くこと屡なりきてふ 館の跡今展示館として残る。第二次大戦中の古き写真等展示あり興味尽きず。日暮れ とともに俄に涼しくバスを駆りて飯店に至る。夕闇迫るに及び街の照明目に眩く上海 に異ならぬ不夜城の趣を呈せり。ガイド説明して言ふやう数年前重慶直轄市となるよ り市の発展著しと。晩餐は仮日飯店内の日本料理屋にて、四川料理を期待せる向きに は落胆の一事なり。


この日寝室にて瞑想中に跳ぶ。



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