愛甲次郎◆中国紀行
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『中国紀行』(平成十六年五月) 愛甲次郎


  第三回


◆ 五月二日



 労働節の休暇中なれば泰山の駐車場並びに索道は観光客混雑を極め、事態は予測し難 しと案内人の言あり。早朝食堂の開くを待ち食事を認め七時半には慌しく賓館を出 づ。前日訪れし孔林の門前を過ぎ曲阜の町を後にす。


 郊外に出づれば路肩に台を設へ赤き布を敷きて唐獅子、観音、布袋、孔子などの陶製 の像を並べ鬻ぐもの道に沿ひて暫し続きぬ。泰山に産する木魚石の湯呑もある由。木 魚石の碗を用ゐて茶を喫するは体に宜しとて中国人之を好むと言ふ。路上更に言ふ程 のこともなく予定に従ひ約一時間にして泰安市内に入る。これより車は山中に向ひ、 ややあって山麓の駐車場に着けり。比較的順調なるは之迄にて、さして長からぬバス 搭乗券売場の列殆ど動かず、我等一同徒らに広場に佇みて券の入手を待つのみ。身の 丈に過ぎたる制服の若者所在なげにふらつくは見張りの心算にやあらむ。待ち草臥れ し我等広場に佇むより車中にて待たんと運転手を呼び扉を開かしむる折しも、ガイド 戻り来りて乗車券を配り渡しぬ。泰山の環境を守り交通の混雑を避くるため山麓の駐 車場に観光客の車を留め置き、代りに公共バスにより索道の乗場に客を運ぶは道理に して何処の観光地にても取らるる措置なり。ただ理由なく手間取り、多くの空車を放 置しつつかくも客を待たすは如何なる所存にや。社会主義的非効率の残滓地方に健在 なるを知る。


 急坂をバスに揺られ谷沿ひに進む。黒白の縞模様の美しき石河床を飾り、路傍に紫の 花盛りなる桐の大木立ちたり。往にし年安徽省に黄山を訪れしこと脳裡を掠めぬ。 峨々たる山容、次第に深まり行く霧にその記憶呼び覚まされしか。索道の起点は桃花 源と聞きしに客を迎ふる花無し。索道は独逸製の四乃至六人乗り、高速にして乗心地 良きものなり。古来の石段道の裏を山頂に向け直行す。周囲の霧愈々濃く窓外やがて 白一色となれり。忽然として霧を抜ければ終点南天門駅なり。駅を出でて幾許もなく して上方に石造の南天門を望む。急なる階段を登りて門を潜れば所謂天街なり。平坦 なる石畳真新たに、立ち並ぶ店も年古りしものなく派手なる装ひの若き男女に似つか はしき趣なり。二世代前農民らが願ひ事適へんと仙女の利益を信じひたすら岩道を攀 づてふ天街いづこにありや。更に進みて足下の雲海遥かに天際に連なるを望む。白雲 の中に突き出でたる巨岩上に疎らなる人影、形は定かなれども夢幻の如し。


 泰山は秦の始皇天帝を祀りしより歴代王朝封禅の儀を執り行ふ聖地なり。諸帝山頂近 き岩壁に詞を刻みて以て碑と為す。山頂に近き辺り仙女を祀れる道教の祠あり。参詣 人多からず、清朝の官吏の如き装ひの道士所在無げなり。海外よりの中国人旅行客な るべし。祭壇の前に敷きたる座布団に両膝をつき両手を組みて叩頭礼拝す。何の願ひ 事か。大香炉より立昇る線香の煙とともに仙女の許に辿り着くべし。


 下山後岱廟に赴く。マイクロバスは裏門脇の駐車場に着き我等裏門より入る。岱廟は 泰山の麓、山を真直ぐに見上ぐる場所に位置し、封禅の儀は実は往時此地にて行は る。主殿は天侖殿と称し、中国三大古代建築の一なり。庭には此処彼処に石亀の背に立つ大いなる碑、柏樹その他の古木多く、程よく整備せらるるな り。


 泰安を離れて約一時間半再び済南に戻り、同じ銀座大飯店に入る。山崎氏の紹介によ り終戦前より済南に住はれし同姓の山崎翁を夕食に招待せり。翁は九十六歳にして耳 やや遠きも背筋は伸び矍鑠たるものあり。その日本語、中国語に比し容易ならずとせる も能弁にして身の上話尽くる所を知らず。済南陥落直後岡山十連隊の軍属として天津 に上陸、終戦を迎へ同僚帰国する中、毛沢東の呼掛に應へ中国残留を決意せり。中国 人の同僚と療養所を開き小児科を専門とせり。当初は日本鬼子と呼ばるるも徐々に周 囲の態度も変り、診るところの患者遂に三代を算ふ。中国人の妻を娶り子を儲け今や 孫に恵まれ、この地に骨を埋むる所存なりと言ふ。その間最も困難なりしは文化大革 命の時期にして、革命の両派に交互に呼出され厳しき訊問を受くるも幸に釈明に成功 するを得たりと。日中国交回復の後一時帰国を果たせるも再び済南に戻り、以降日中 の橋渡しを使命と心得済南市と和歌山市の姉妹都市契約を斡旋する等、今や国際友人 の称号を有するに至れり。翁によれば山東省人は至って我慢強く、切れるまで耐へに 耐ふ等日本人に似たる気性なりと言ふ。



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