愛甲次郎◆中国紀行
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『中国紀行』(平成十六年五月) 愛甲次郎


  第二回


◆ 五月一日



 八時銀座大飯店を発ちて曲阜に向ふ。埃がちなる街道筋を進むこと幾許もなくして京 福高速に乗り南下す。目に鮮やかなる緑の条々数限りなく走るは麦畑ならむか。そこ かしこに果樹と覚しき細き若木の立ち並ぶは畑の境界を示すものなりや。道路は次第 に上り坂となり、左右に丘陵の続くが見ゆ。早や泰山山脈の裾ならむか。緑は愈々鮮 く、岩石の崖下に露出すること屡なり。彼方に見ゆる山塊は濃き雲に包まれてその高 さを知るべくもあらず。


 曲阜の町は新旧あり。旧市街なる孔林、孔廟、孔府を訪ふ。宿泊の闕里賓館より仰聖門を経、平滑なる大石を敷き詰めたる幅広き街路を通り孔林に至る。街路樹の槐樹は大なれども高からず。聖人に対して樹木だに敬意を表すと言ふ。孔林は孔子が子孫一族の墓苑にして、二百ヘクタールに及び約四万の碑を擁し世界最大の家族墓地と聞く。正門は至聖門と称し、「金声玉振」なる額懸れり。こは孟子の言にして、古代中国の音楽、「金」即ち鈴の音に始まり「玉」即ち磬と称する石製の楽器を奏して終るが如く、孔子の教は良く整ひて首尾一貫せるを示すなりと。この墓地の歩むに余りに広大なれば乗合の電動車に乗りて巡る。背低けれど年古りたる樹木の茂れる下一面に露草に似たる草広がりて薄紫の可憐なる花を着けたり。電動車音無く走るに頬に触るる風の涼しく心の自づと静まり行くを覚ゆ。


 墓地を巡り終へ次いで聖人を祀る孔廟に入る。文を司る星に因む「櫺星門」に近く、 子貢海南より齎せる楷なる古木あり。柏樹の庭内に多ければ定めし奇観を呈する樹あ らんとの期待に背かず、龍の幹を攀づるが如き様見する一樹あり。数年前洛陽なる関 帝廟にて正に龍頭そのものの枝振りを成せる柏樹を見る機会を得たり。かれに比すれ ば遠く及ばざれども孔林の柏樹は記録には値す。


 境内にあまたある小閣を蔽ふは北京の故宮に見慣れたる黄色の瑠璃瓦なり。閣の柱、 土壁は赤く塗り、中に大いなる石碑を蔵せり。大成殿と言ふは謂はば本殿にして古代 三大建築の一とは言へど中国に多き仏教寺院の本殿の一に異ならず。本尊として仏像 に代へ孔夫子の像を祀るのみなり。


 数年来その服装著しく改善を見たりとは言へ未だ洗練には程遠き群聚引きも切らず。 参詣者の敬虔なる風情は全く之無し。複数のガイド各自拡声器を握り説明の音量を競 ふは、怒号にも似たる観光客の会話のかまびすしきと相俟ちて聖人の瞑想を妨ぐるや 甚だしと恐る。


 夕食の後土地の伝統舞踊に案内せんとのガイド王氏に随ひ外出す。約十分とのことな りしも仰聖門を過ぎ賑やかなる新市街に出づるも留まることなく二十分を経て漸く一 際大なる構への建物に辿り着きぬ。昨年末漸く新装成れる市立劇場にして杏壇劇場と 名づく。規模広大なり。ほぼ無人の広場を通り抜けやうやう階段状の野外劇場に達 す。薄暗がりの中切符に記されたる座席番号確認せんとするにうら若き観客の女性 群、彼等の前に坐し給へと招く。番号にはさしたる意味なきが如し。勧めらるるまま 西瓜の干したる種を手に受け不器用に割りつつ開場を待つ。空を見上ぐれば数条探照 燈の光放射状に走りて雲の底を打つ。曲阜は初めてかと中国人問ひ、訥々と之に答 ふ。やがて野外劇場を囲む壁上に多数の人影浮かび出でぬ。愈々開演なり。照明一 閃、正面舞台と壁上に踊り子の群れ色鮮やかに現れたり。


 拡声器による説明やや理解に難けれども舞台右側の文字による説明表示にて僅かに全 体の流れを追ふを得たり。定めし古典舞踊の上演ならむと期待せるに、「杏壇聖夢」 なる労働節の演し物にて孔夫子の教へと戦争否定世界平和を結びつけたる中国版新作 舞踊劇なり。戦士を装ふ踊り子京劇の如く舞台に乱舞し、民族舞踊も交へて勢あるこ と一方ならず。文化革命の頃なれば地方政府によるかかる催し思ひも及ばざりけむ。 帰りはマイクロバスの迎へありて一同胸を撫で下ろしぬ。



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