愛甲次郎 - ヴィヴェカーナンダ その二
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ヴィヴェカーナンダ その二 


ここに小冊子にしてヴィヴェカーナンダの教へを伝ふるものあり。各位の許しを得てその冒頭の部分を読上げむ。
「全ての魂は潜在的に神聖なり。(吾人の)目標は、この内なる神性を内及び外の自然の統制によりて表出せしむるにあり。」
これ仏教の教へそのものなり。仏教に言ふ「一切衆生 悉有仏性」は人全て仏の可能性を有するの意なり。そを現実化すべく努力せよと仏陀説き給ふ。余豫てより仏教とヒンドゥ教の間にさしたる差を認めず。いづれもヴェーダ以来の古代印度の偉大なる思想の流れを汲み、特に大乗仏教はヒンドゥ教の前身たるバラモン教の影響を大いに受け、また他方ヒンドゥ教は印度において全面的に仏教を代替せしものの仏教より吸収せしもの少なからず。ヒンドゥ教、「梵我一如」即ち宇宙の本質と自我の本質は等しと説き、当に之を悟るべしとなす。一方仏教は森羅万象悉く「空」(般若心経の色即是空の「空」なり)と観ずるものにして、両者の言はんとする所全く異ることなく単に表現の差に過ぎず。教への内容のみならず真理に到達する手段たる修行の体系も、仏教のそれはヒンドゥ教の修行体系たるヨーガと基本的に相同じ。


ヴィヴェカーナンダは更に続けて「之を(内なる神性を外に現す事なり)職務、礼拝、霊的修行もしくは哲学(即ちヨーガ)により達成せよ」と説く。ヨーガについては彼は別なる書に詳細に論ずるところあり。ヨーガには大別して四、即ちカルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガあり。時間の制約あれば要約して之を述ぶるに、カルマ・ヨーガは結果や報酬に執着することなく自己の社会的職業的義務に専念するを言ふ。執着心なしにと言ふは至難のことなれど、活動的なる人はひたすら之に徹することにより究極的に悟りの境地に達することを得。バクティ・ヨーガといふは特定の神に対する信心なり。祈祷、儀式のほかあらゆる方途を以て神に献身的奉仕を為す。之は情緒的傾向強き者に適し、先のラーマクリシュナはこれを以て聖者の域に達せりと聞く。次なるラージャ・ヨーガは瞑想を主体とするものにして、正しき瞑想をなすため戒律、呼吸法、ポーズ等の修行を行ふ。日本においてはこのポーズのみを以てヨーガと為す者多し。先にヴィヴェカーナンダの霊的修行と呼びたるは之に他ならず、神秘的傾向の強き人に向くと言ふ。最後に最も困難なる途はギヤーナ・ヨーガと称するものにして一口にしてこれを言はば哲学なり。純粋に思索によりて超越的真理に到達するは一応可能なるも、そは極く限られたる小数の人々にのみ開かれたる途なるべし。かくの如くヴィヴェカーナンダの説くヨーガ、その範囲日本人一般の想像を遥かに超えたり。仏教のみならずあらゆる宗教において凡そ魂の救済或は解脱のため為さるる所を悉く包含するものなり。



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