幽靈の足 文化文政のころとかや、やまとぢの吉備の名神の事とるかんなぎに松齋藤井高尚大人とてあり。あらはせるふみどもくさぐさなるなかに『松の落葉』といへる隨筆ありて、天保のころほひ殊に大坂にては夥敷賣れたりときこゆ。いと興深きものなり。おのれさきつ日讀み了へて一碗の茶など飲みをるに郵便來たり。明治のなからばかりにや陸羯南三宅雪嶺兩大人他に起れりとふ雜誌『日本及日本人』なりき。創刊百十年なりとぞ。創刊百十號とはいたく異なれり。海内に誇るに足るべしとおぼゆ。余がもとにあまたとせおこせたるなんいとかたじけなき。 さてなにとなうとぢめのひとひらごと繰るにゆくりなくも『松の落葉』の文字を見つ。まへうしろを見るになにがなし心得ぬふしのあり。百三十三頁に訂正ありとて、「板行の隨筆『松の落葉』に・・・」のくだり、何氣なく讀まんには板行を人の名と見紛ふにやあらんとて、その前に「藤井高尚の書いた」を插入すとありたり。いぶかしみて該頁をあわて披くに津田類大人の「風流江戸ばなし、幽靈には足があった」の一文にて「文政十二年板行の隨筆『松の落葉』に」云々とあり。この「板行」、人の名とは取り違へらるべうもあらず。本文をなほも見るにまた心得ぬことあり。『松の落葉』にありとてかくなん。「今人幽靈といへるものは足のなきもののやうに思へり。しかるに百年以前描くところのえん魂には、ことごとく足あり。さてこの足なき幽靈はいつの頃より出來しといへるに、こはいと近く圓山應擧よりおこりしなり」と。余ふみ讀むともがらなるに老耄ここに至れるか。巻を置いたるばかりに「今人幽靈といへるもの」云々の文字ありしことさとも覺えずみな失せたり。老いらくの來むといふなる道もまがへと長嘆息せしが、さるにてもあまりにいぶかしければ今ひとかへり見返すにくだんの文字見えず。 高尚大人、鬼幽鬼を語らざるにあらず。二の巻には鬼の段ありて、面は朱の色たけ九尺、目ひとつにて爪は五寸なんど恐ろしき容をうつせり。四の巻には幽靈の段さへあり。深く心を殘して死にたる人のたまならんこと明らめ語りて凝滯なし。高尚大人は神道者にして拗強の儒學者流にもあらざれば不語怪力亂神になづまんさまあるべからず。大人もとより近代の人なれば説くところ理りだちてはあれど怪誕多なりと云ひて可なるべし。されど幽靈の足のあげつらひは無しと見ゆ。『日本及日本人』の記事、なにとてかくはなりつらんか。 高尚大人にもしや同名『松の落葉』なる別のひと巻のあるか。『國學者傳記集成』を披きみるに見えず。さては津田氏にはゐやなきおしはかりなれど『松の落葉』なる稱への他のふみありて、あらはせる人の名を取り違へられたるか。されど記事には「文政十二年板行の隨筆『松の落葉』」とまであらはに記されたれば、同じ年おなじ稱への隨筆あらはれて今に傳はるべしとも思はれず。困ずるまま余按ずるに、こはあらはせる人も異なり世に出でし時もへだつる二つの巻のあるにあらずや。ともに名の『松の落葉』とあるからに「文政十二年板行」と津田氏は注し、『日本及日本人』編輯部また「藤井高尚の書いた」と重ねて注したるにはあらずや。かからんとせば取り違への二つ重なりたるにて、いとうけひき難きに似たれど據りどころなきにあらず。文政十二年より百年前とは享保十四年なり。應擧いまだ世にあらず。足のなき幽靈を應擧描いて世に容れられしは、婦人寫生圖の筆致から見るに明和七年を遡るを得ずとおぼゆ。文政十二年よりは六十年このかたのことなれば、足ある幽靈をことさら百年以前に求むること要あるべしとも思はれず。さればこの『松の落葉』なるは文政より四十年がほど下がれる明治御改元のころのものにあらずや。 ここにいとたよりよきふみに『廣文庫』とて二十三巻あり。出典を檢するにあまりにたよりよき巻巻なるからにや學者かへつてこれを隱す。『古事類苑』に類せることをかしや。余もとより學者ならねば何の憚りもなし。かたぶきつつ埃を拂ふに加藤雀庵『さへづり草』を見いでたり。足無き幽靈の應擧に出づることを説きて津田氏引用の文に異ならず。『さへづり草』中「松の落葉」と名附けられたる一巻なりと見ゆ。これなるかな、これなりけり。『さへづり草』二百三十七巻、明治三年の刊行なりとぞ 戊寅仲夏 萩野貞樹 ▼「文藝襍記」表紙へ戻る ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |