小学唱歌「故郷」
                 


 『兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川』に始まる尋常小学唱歌「故郷」は一九九 八年催されたる長野冬季オリムピック大会閉会式に歌はれしより、今や「さくらさく ら」と並び日本を象徴する唱歌の一つとなりたりと云ふ。


 唱歌「故郷」は大正三年(一九一四年)出版の『尋常小學唱歌(六))に初めて掲載 せられたり。この歌は作詞高野辰之、作曲岡野貞一とせらるるも、事実は六人の歌詞 担当委員と同じく六人の作曲担当委員の合議により完成せる歌曲にして、委員の何れ が主として担当せるかは詳らかならず。彼等の手により「紅葉」「茶摘」「春の小 川」「海」「朧月夜」と数々の唱歌の名作産みだされたり。


 この唱歌の二番の歌詞『如何にいます父母 恙なしや友がき』は典型的「父母の故 郷」を歌へるものにして『思へば遠し故郷の空 ああわが父母いかにおはす』と歌ふ 蘇古蘭土民謡の旋律による「故郷の空」と好一対をなすものなり。


 わが母、明治の中期に茨城の郷里を離れて、一人笈を負ひて上京し、女学校に通学 せし折、望郷の念に駆られて口遊みしは「故郷の空」の曲なりと我に語りき。


 「故郷」は斯く永年に渉り人口に膾炙したる歌なれば、外国人歌手も日本の歌をプロ グラムに加へんとする折は、之を選ぶこと珍しからず。


 日本語にも堪能なる米国人歌手グレグ・アーウインは、先頃「赤とんぼ」「早春 賦」「この道」等十数曲の日本唱歌を自ら英訳し、之を録音の上発売せり。この中に「故 郷」の含まれをりしは当然なり。余は彼の口遊む「故郷」「赤とんぼ」のラジオ放送を一 聴して魅せられ早速に彼の盤を手に入れぬ。


 アーウインの歌はポップの範疇に属する歌唱にして、テノールの滑らかなる耳当り 柔かき発声なり。英訳の歌詞も逐語的にはあらず原詩の大意を汲み、判り易き英文に 移せり、例へば「故郷」の『如何にいます父母・・・)は『マザー・アンド・フアザー   ハウ アイ ミス・ユー ナウ』と表現せられたり。こは正に現代米国人による 英訳の典型にして「父母」の順序を逆転して『マザー・アンド・フアザー』となりゐた り。

 これ等の歌の数々を聴き進む中に、嘗て獨逸語に訳せられたる日本唱歌集を購めあ りしことを記憶に呼び起こしぬ。


 そは瑞西人テノール歌手エルンスト・ヘフリガーの今より十年程以前に録音せる二 枚のCD盤なり。ヘフリガーは、一九六九年カール・リヒター及びミュンヘン・バッ ハ合唱団一行来日し、バッハ「マタイ受難曲」の圧倒的名演を以て聴衆に感動を与へし 時にエヴァンジェリストを受け持てる名歌手にして、爾来三十年に渉る間しばしば来 訪、歌曲に歌劇に活躍して我々を魅了せしが、日本歌曲にも関心を懐き、獨逸に留学 せる二人の女性による獨訳の歌詞を用ゐ約四十曲近き歌を唱ひたるものなり。而して その歌詞は我が貧弱なる語学力にては理解困難なるも概ね逐語訳の如く推察せらる。 されば『如何にいます父母・・・)は『フアーター ウント ムッター マイン、  ゲエート エス オイッヒ グート』とせられて、父母はアーウインの英訳と異な り、その侭の順に訳せられしは、英獨人情の相違によるか或は訳者の所為なるか判然 とせざるも興味深き次第なり。


 さてアーウインの唱歌は平明なる用語と軽快なる節回しによりて気安く楽しみ得る も二三度聴き続けむか些か物足りぬ感を覚ゆるは本格的歌唱法ならざるが故なるべ し。


 一方ヘフリガーによる歌集は流石に世界一流歌手たるに背かず、「この道」「城ヶ島 の雨」「故郷」等の夫々の歌は、淡々とせる歌ひぶりに最初はやや素気なく聴こゆれど も、聴き込む内に滋味漂ひ恰もシューベルトの歌曲集「白鳥の歌」を聴くが如き心地せ り。凡俗の日本人歌手によるものより曲の心髄に迫ると称しても可なるべし。


 されど斯く聴き比ぶる内に日本語による「故郷」を聴きたき思ひ募り、鮫島有美子歌 ふかの曲を選び耳を傾けぬ。『兎追ひしかの山・・』の聴き慣れし歌はしみじみと我 が心に染み入り行き、この文語体歌詞の何と格調高く名文なるかを更めて痛感せり る。


 鮫島の歌に満足して床に就き、眠りに至るまでの常として枕辺のラジオに耳を傾くれ ば、たまたま大東亜戦争中樺太に在住し、内地に帰還の機を逸してソ連により大陸に 抑留せられ、その後流浪の生活を重ねたる末に、今は黒海沿岸のロストフに老後を養 ふ日本人夫婦の望郷の歌を歌ひしが聞かる。『空に囀る鳥の声・・』なる「天然の美」 と、『兎追ひしかの山・・』の「故郷」との訥々たる歌聲の二曲、切々と我が胸に食ひ 入れり。取材に当りたる報道記者も思はず涙を禁じ得ざりしと云ふ。かの『・・忘れ 難き故郷』の古き唱歌を、奇しくも最も相応しき歌ひ手により聴くことを得たりと、 暫し眠るを忘れてもの思ひに耽り時を過しぬ。


 我東京に生まれ育ちて、緑多き自然に恵まるる郷里は持たざるも「故郷」の唱歌は我 が心の故郷の歌として胸底に永く響き続くことならむ。


 茲に敢へてその全歌詞を掲げむ。


   故郷       高野辰之作詞


一、兎追ひしかの山   小鮒釣りしかの川    夢は今もめぐりて  忘れがたき故郷


二、如何にいます父母  恙なしや友がき    雨に風につけても  思ひいづる故郷


三、志をはたして    いつの日にか帰らむ    山はあをき故郷   水は清き故郷


              (和田  裕)


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