文語の衰頽を憂ふ 大口 童遊 文法にこだわる我の目を見つつ師は説き給う憶良の心 (高二) 学びたきに学べざりにしわが父母を心につれて講義受けいる (女子大生) (短歌 青春――『現代学生百人一首』批評集より) この二歌の如きは、高校、大学生も文語にて和歌を詠み得る證左なり。 惜しむべきは現代假名遣なることなり。文語を現代假名遣にて表記す るは、木に竹を繼ぐが如し。正假名遣 (歴史的假名遣)にして 始めて文語たり得るものなり。 されど當今、有力新聞社の歌壇採用歌の大半は、この學生と同樣、 文語でありながら現代假名遣といふ奇妙な形式にて恬然たり。 撰者諸氏の文學的、美的感覺を疑ふほかなきなり。 我が九十歳老母、若きより地方の短歌結社に所屬、もとより正假名遣なりしが 數年前、 主宰より現代假名遣が望ましき旨達しありと言ふ。 理由は、若者が蹤いて來ぬ故とか。 若者に傳統文化を教へず、 迎合によつて結社の存續を圖らんとする態度は嘆かはしき限り。 現代假名遣になづむほどに、用語も口語化し行くは自然の道理なり。 朝シャンのサラサラ髪が届くようゆっくり過ぎる先輩の前(中一、前掲『短歌 青春』より) 夕闇が僕の心を押してくる光へ走る夕暮の街 (高二、平成十五年歌會始) こは完全なる口語短歌なり。昭和六十二年、俵萬智の短歌集『サラダ記念日』 の成功以来、 若者は同樣の口語短歌一色となりし感あり。 「五七五七七」の形と調べを身近なものとせし功績を讚ふべきか、 文語短歌の衰頽を加速せし罪を糾彈すべきか。 俳句は、短歌とは事情が異り、新聞社等の俳壇は文語、正假名遣なるも、 小中高校では口語俳句とならざるを得ず、例せば此の若し すず虫が秋のよるに鳴いている (小六) 星空と川辺のホタルとくらべっこ (同) (全国小学生・中学生俳句会作品集より)
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