泰俳句事情――常夏の季語    三


トッケーの鳴くを數へて歩み止め
                                    鹽谷 敏子(*1)

 げにげにかかることありと泰在住長き向きは思ひ當るらむ。トゥッケー、トゥッケーと聞ゆる野太く剽輕なる聲は、泰の風物詩の一つなり。盤谷都心のマンションに暮す者は見聞きすること少なくなりぬべけれど、余の住むオンヌット通りの住宅團地にては、蛙の聲もトッケーの聲も屡々耳にす。 何故立止まりてまでその聲を算ふるや。そは七囘鳴くを聞かば良き事ありとの言ひ傳へによる。余も此度こそと期待しつつ算ふれど、常に六囘にて終る。
  トッケーは大型の守宮なるが一見は蜥蜴に近し。中國南部と東南亞細亞の廣き範圍に分布し、人家近くにて鼠や昆蟲を食す。ごきぶりや蚊も食す有難き生き物なり。 守宮と言へば、更に極く普通に家の中に入りくるチンチョクあり。ちょちょちょといふ鳴き聲も愛らしきものなり。
サワディーと聲を掛けたき子チンチョク
                                            憧遊(*2)
  家内の白壁に逆さに張付く姿を見れば、思はず聲を掛けたくなる。昨年八月の余の句なり。覚えたての泰語を使ひたるものなるが(サワディーは「今日は」の意なり)、如何にも發想安直、陳腐。メナム句會に於て誰も選びくれず。
(*3)
  トッケーもチンチョクも、要するに「守宮」ならずや、と言ふてしまへばそれまでなり。メナム句會にてもチンチョクを「守宮」と詠まるゝこと多し。されど日本の都會にては守宮も蜥蜴も見掛くること滅多になき故、トッケーもチンチョクも泰ならではの、身近なる珍しき生き物なり。近き將來編まるゝ豫定の「泰歳時記」 (*4) にては、「チンチョク、トッケー、守宮、蜥蜴……」と竝べて解説を付し、いづれも季語として選べるやうにすべきなるらむ。 なほチンチョクもトッケーも一年中見らるゝが、メナム句會にては、歳時記の守宮、蜥蜴に準じ夏の季語として扱はれ來れり。


*1 泰國日本人會報『クルンテープ』昨年八月號。作者は昭和四十五年頃より在泰通算十四年のバンコク・スリオン・ロータリー會長夫人。趣味に油繪を教へ、泰上流夫人にも弟子多し。
*2 昨年八月『メナム句會報』。
*3 メナム句會は昭和二十五年、泰國日本人會の倶樂部第一號として誕生せる俳句會にて、半世紀を越ゆる歴史を持つ。月例句會は互選を中心に運營さる。現在は各々五句づつを無記名にて短冊に書き、まとめて清記せるものを囘覽、各人良しと思へる句を、同じく5句づつ選ぶ。
*4 これまで慣行として行はれ来し泰の獨自季語をまとめ「泰歳時記」として出版する豫定。海外にては「ハワイ歳時記」「マニラ歳時記」等ありといふ。



           
(泰國邦人紙『VOICE MAIL』より)


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