我が勸進帳

                 
 以前職場で將棋盤駒を買ふため職場仲間から寄附を募つたことがある。その勧進のため勸進帳を私が拵へて廻覽した。

もちろん遊びのための道具を買はうといふのだから、職場である學校當局に援助を仰ぐわけにもいかない。あくまで仲間うちの話である。それなら却つて遠慮するまでもない。思ひ切つて笑ひのめしてやらうかと拵へたのが次の戲文である。作つてゐるうちに、なにやら眞面目な顔になつてゆくのが我ながら可笑しかつたのをおぼえてゐる。

 その前に、歌舞伎十八番『勸進帳』に現れる勸進帳を示す。私のものはその眞似文であり、パロディと言つてもよい。



歌舞伎十八番[勸進帳]

それ、つらつらおもん見れば大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隱れ、生死(しやうじ)長夜(ぢやうや)の永き夢、驚かすべき人もなし。爰に中頃、帝おはします。御名を聖武皇帝と申し奉り、最愛の夫人(ぶじん)に別れ追慕やみ難く涕泣、眼にあらく、涙(なんだ)玉を貫く、思ひを先路に飜へし上求菩提の為、盧遮那仏を建立仕給ふ。然るに去んじ治承の頃焼滅し畢んぬ。かほどの靈場絶えなんことを歎き、俊乘坊重源勅命を蒙つて、無常の觀門に涙を落し、上下(しやうげ)の眞俗を勸めて、彼の靈場を再建せんと諸國に勸進す。一紙半錢奉財の輩(ともがら)は、現世(げんぜ)にては無比の樂に誇り、當來にては數千蓮華の上に坐せん。歸命稽首、敬つて白す。


戯作勧進帳

 夫れ熟々惟みれば勝負輸贏(しゆえい)は人情の自然人倫の大道にして王化の鴻基たり。將棋尤も能く其の要諦を具へ秘鑰を藏す。肅然端坐して禮を盡し、一朝釁端開くに及んで干戈その臂力を悉し、知能秘術その限りを竭す。戰ひ歇めば乃ち和顔藹々として互みに勞を犒ふ。苟も君子正人(せいじん)將棋を嗜まざるは大廈人無くクリープなき珈琲、点睛の缺くるを歎ぜずんばあらざるなり。

抑も斯道は淵源遼遠にして雲霞の彼方にあり。發を索むるに異説紛々たりて或は希臘人これを始めたりと言ひ或は羅馬人婆毘倫(バビロニア)人埃及人猶太人支那人印度人これを爲れりといふ。周書に曰く、北周の天和(てんわ)四年(耶蘇暦五百七十年)五月己丑、武帝象經(しやうきやう)を制して百僚に講説すと。アイレス・アーヰン氏の書に曰く、漢の高祖の治世齊征討の將韓信が兵これを案ずと。右固より妄誕なりと雖も、淵源深く未知(ぼうとう)の境に出づるは右の一事を以て窺知するに足らん。
飜つて邦家にありては吉備の大臣これを將來し大江匡房これが理を窮む。戰國に大橋宗桂出でて右大将織田信長太閤豊臣秀吉の謁を給はる。是れ現下隆昌小(こ)將棋の濫觴なりとす。
 加へて江都殷賑の砌伊藤宗看出で、明治御一新の後は小野五平坂田三吉關根金次郎、降つては木村義雄升田幸三大山康晴、更には中原谷川羽生佐藤等異能儁才陸續たるに及んで其の神髓中外に燦たり。

 是(これ)を以て此(これ)を見れば、文明の進運文華の開顯まさに將棋と其の軌を一にするを知るべし。然りとせば斯道の興起は士人の翹望するところにして悖亂の世風以て匡さざるべからず。況んや鸞鳳伏竄して鴟(し)(けう)(かう)翔(しやう)し、茸(たふじよう)尊顯にして讒諛志を得たるの時に於てをや。屈原楚に在るを學び、囂(がう)塵(ぢん)喧(けん)鬧(だう)掃(はら)はざるべからざるなり。

 思ふべし、寒流月を帶びて明鏡、夕吹(せきすい)霜に和(くわ)して利刀たり。加ふるに黄(くわう)(ばい)緑(りよく)(しよ)冬を迎へて熟するなるを。復た思へ、其の時盤を挾んで一局の棋譜に雅懐を載せ、了つては乃ち羽觴を飛ばして春醪を酌まんことを。

 嗚呼、然るを如何ぞ將棋盤馬子(こま)、擧りて憔悴、原形を窺ふを得ずして棋道爲に氣息奄々たり。ここに大業復興の大願を發(おこ)し、上下(しやうげ)の眞俗同憂の朋輩に勧進す。一紙半錢奉財の同胞(ともだち)は、現世(げんぜ)は無比の樂に誇り、當來は數千(すせん)蓮華の上に坐せん。稽首敬白。






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