■「旧仮名」は便利だ(連載)
              萩野貞樹(国語学)
  その五

「元気でね」マクドナルドの片隅に最後の手紙を書きあげており

 多くの人に愛された歌ですが、これもじつは意味不明です。理由はもちろん新仮名
で書かれた「おり」にあります。

 文語を新仮名で書くことはそれ自体規則違反ですから、この「おり」は一応口語な
のでせう。ところがさうとも見えない感じがある。文語の「をり」を音写したものか
もしれない。どちらかによつて意味はまつたくちがつたものになります。

 もし口語新仮名だとすれば「おり」は「おる」の連用形です。つまり、「書き上げ
てをつて、そして・・・」と言ひさして後は省略し、余韻を持たせるといつた表現法
です。ところがもし文語だとすれば「おり(をり)」は終止形ですから、きつぱりと
言ひ切つた表現となる。
 まつたく意味がちがひます。

 和歌鑑賞上これは重大な差別で、作者は考へぬいたはずなのですが、新仮名である
ことによつて解釈不能となつてゐます。

気がつけば小動物の眼して枯野に風の立つを見ており

 新聞歌壇のこの歌も事情は同じです。この歌などはやや俳味もありすごみさへあつ
ておもしろい歌となるはずだつたのですが、新仮名のせゐですつかりぼやけました。
鑑賞上言ひ切りに決まつてゐるぢやないか、なんて言つてはいけませんよ。言ひ切り
なら「をり」と書けと言ふまでのことです。

 ところでついでですが、この「見てをり」「書き上げてをり」「集まりてゐる」
「見えてゐる」の類、つまり形式動詞といはれるものがいまは俳壇歌壇でじつにしま
りなく多用されてゐますが、せめて俳句の人たちはそろそろ抑へてくれませんか。た
つた十七字がじつに長つたらしく感じられて退屈です。「集まる」「見ゆ」でたいて
いは十分です。まして「集まりてゐたるかな」だの「見えてゐたりけり」などといふ
のでは、字数がもつたいなくてしかたがない。

 去年のある俳誌に掲載された有力新人の連作五十句を見たところ、「濡れてゐる
石」「風吹いてをり」などの句が七つもありました。「てゐる」「てをり」「てあ
り」などの部分は具体的な意味を負ふ語ではありませんから、よほどのことがなけれ
ば表現の工夫で無くて済むものです。「濡るる石」「風吹く」で十分。それがだめだ
といふのは工夫が足らないからです。

 ちなみに『奥の細道』の六十句ばかりの中に「てゐる」「てあり」の類はたつた一
つもありません。正岡子規の『俳諧大要』には百六十句ほど優れた句が引かれてゐま
すが、その中にもこの種の形式動詞はただの一つもない。わづか十七字を生かし切ら
うとするなら当然のことではありませんか。字数の節約は句の命でせう。

 ところで、私は俳人ではありません。作らぬ者にこのやうに言はれると作る人は腹
が立つたりするものです。反論は歓迎ですが但し、「作りもせずになにが−−−」と
言ひたいならそれは蛸壺感覚で恥づかしいことですから独り言にすることです。

(「俳句朝日」2004年3月號所載)
 
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