■「旧仮名」は便利だ(連載)
              萩野貞樹(国語学)
  その四

 これが仮名遣の議論のいちばん根つこのところですが、ただ、右に述べたことはい
はば形式論です。実際、文語でも「や」「かな」「き」「けり」の類にとどまつてゐ
るならば、仮名遣の目立つた問題は生じません。直接具体的にわれわれに被害がおよ
ぶのは、新仮名ではしばしば意味が通じないことがあるからです。
 この稿は「旧仮名指南」といつた趣旨のものではありますが、旧仮名そのものはべ
つに難解といふものではなく、中学か高一程度の文法常識と国語辞典の一冊もあれば
十分間に合ふもので、そのことは後で少し挙げる「要領」を見ればすぐわかつてもら
へるはずです。だからここでは「新仮名では文意解釈不能」といふことに触れておき
ます。
 さてここでいきなり和歌の例を出しますが、事情は俳句でもまつたく同じことで
す。
 新聞歌壇でこんな歌を見ました。

沢水の音さわやかに注ぎいる青わさび田に春の雪ふる

 この新聞では仮名遣は新仮名に統一する旨いつだつたか告示されてゐて、旧仮名の
投稿歌も新仮名に変へて掲載してゐるやうです。古語・雅語の類も全部新仮名となつ
てゐて、だから「生まれ出づ」とやつても「生まれ出ず」とされてしまふのですが、
これは先に言つたやうに正しくは「新仮名」ではありません。「表音式表記」といふ
のが正確でせうが、とにかくその種の表記による右のやうな歌が出てゐました。
 ここに「注ぎいる」といふ句があります。これはじつに人をいらだたせる。
 といふのは、これはおそらくは近頃の悪しき流行の形式動詞を使つた語法で、作者
のつもりでは「注いで居る」といふ意味なのではないかと想像されます。しかしさう
とは決まらない。「注ぎ入る」の意味かもしれない。その方が表現としてはるかに緊
密です。
 もしこれが歴史的仮名遣で書かれてゐたら、「入る」の意味なら「いる」、「居
る」の意味なら「ゐる」と書き分けられることになり、一見して意味明瞭となりま
す。ところが新仮名で「いる」とある。すなはち「解釈不能」の歌なのです。「研
究」によつて解決するなどといふことは絶対にありません。

森田たまの随筆読みいるたらちねの影恋しかる冬の日溜まり

 ここの「読みいる」も解釈不能です。懸詞ぢやないかなんて冗談を言つてはいけま
せんよ。懸詞といふのはあくまで原義明瞭な語句に成り立つ両様の解釈をいふので
す。ここでは原義が存在しないのですからどうにもならない。解釈不能なのはもつぱ
ら新仮名が理由です。

(「俳句朝日」2004年3月號所載)
 
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