■「旧仮名」は便利だ(連載)
              萩野貞樹(国語学)
  その三
 人々には、仮名遣に関はる話のいちばん根つこのところを思ひ出してもらひたい。

 昭和二十一年まで、そもそもわが国には新仮名といふものは存在しませんでした
(個人の試作品はあつた)。同年十一月十六日に「現代かなづかい」といふ名で内閣
告示の形で公布されて以後のものです。これは私たち私人に対する強制力はまつたく
ありませんから、従ふ従はないは勝手なのですが、それはそれとしてこの「現代かな
づかい」は、


 「現代語を仮名で表記する場合の準則」
 「現代文のうち口語体のものに適用」


と位置づけられてゐます。昭和六十一年改定の「現代仮名遣い」でも同様です。

 現代語とか現代文、また口語体と言つてゐるのは昭和二十一年当時そのやうに意識
されてゐたものを指しますから、たとへば芭蕉のものを新仮名らしきものに書き変へ
たとたん、それは新旧いづれの仮名遣でもなく、ただただこの世のものならぬ化け物
に変貌するのです。

 同様に新しく作る場合も、「秋風や」だの「嵐かな」だのとやつた瞬間にこれはれ
つきとした古文ですから、もう新仮名は許されません。それでもどうしても新仮名が
使ひたいならば、たとへば、


  
秋来ぬと合点させたる嚏かな(蕪村)


なんて句を作つてはいけません。

  
秋が来たと合点をさせた嚏だな

とやらなくてはならない。
「道のべの木槿は馬にくはれけり」は、

  
道ばたの木槿は馬にくわれたよ

となつて、これならば「正しい新仮名」です。「くわれけり」といふ表記は、我が国
語には存在しません。もつともそれを強引に「存在する」ことにして、多くの古典が
新仮名に改竄の上、大出版社から出版されてゐるのはなんとも無残な話です。

 俳壇には(歌壇にも)今に至つても、専門家といふべき人の中にさへ、新風・新感
覚のつもりでか文語新仮名(正確には非国語・非日本語のお化け)を使つて平気な人
があるのはまことに残念なことです。

(「俳句朝日」2004年3月號所載)
 
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