■「旧仮名」は便利だ(連載)
萩野貞樹(国語学) その二 ところが俳句をよむ人たちが、いまもかなり厳密に旧仮名、歴史的仮名遣を守つて ゐるのはじつにめでたい。 もつともこれはまつたく当然のことで、そもそも俳句に新仮名は不可能な話です。 たとへば「春雨や」と言つてみても「時雨かな」と言つてみても、この「や」や「か な」は古語なのであり、かうした語句を駆使した俳句・和歌の類は文語文です。文語 文に新仮名を使ふわけにはいきません。 私がさう言ふのはなにも、旧仮名を使ふのがたしなみだとか伝統・習慣だとか、あ るいはまた句作の心得だとか、そんな意味で言つてゐるのではありません。実際上不 可能だと言つてゐるのです。 もちろん音写することはできます。 荒海や佐渡に横とう天の川 あるいは、 荒海や佐渡に横とお天の川 といふわけです。しかしこれはけつして新仮名ではないし、ましてこれを芭蕉の句だ などと「誤解」する人は、ここの読者にはないはずです。「横とう」は「横たふ」の 新仮名ではないかと思ふ人はないでせうね。これは新仮名ではありませんよ。当然で す。そもそもこんな日本語は存在しないのですから新も旧もない。ただ音響を写した だけのことで、ガウォーッとかウヒャアーとかいふものと同じです。 一茶に、 米蒔くも罪ぞよ鶏が蹴合ふぞよ といふ句がありますが、これを、 米蒔くも罪ぞよ鶏が蹴おうぞよ と新仮名に書き直したつもりでもこれは新仮名ではありません。ただ日本語でないと いふばかりです。芭蕉の句のつもりで、 あらとうと青葉若葉の日の光 ひるがおに昼寝しょうもの床の山 なんてやつても同じことです。 (「俳句朝日」2004年3月號所載) ▼ その三へ ▼「文藝襍記」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |