「文語の苑」の継続的な活動グループの一つにお茶の水女子大学「文語倶樂部茶苑」がある。月例会では各種レポートがなされるほか、全員が一定のテキストを文語訳して持ち寄り、互いに感想・批評を述べ合ふといふ遊戯的学習を楽しんでゐるが、私も講師団の一人として試訳を供した。次に掲げるものは私の試案である。なほ、川上原文は後掲。 『蛇を踏む』川上弘美 萩野試訳 いかに物狂ひしぬればとて、なにとてか蛇(じゃ)とはなるべきと念じつつ、蛇のまうけたる厨膳余さず喰ひて、ねぶりつ噛みつ嚥みくだす。さてまたくらひ嚥みくだして、はては陶皿(すゑざら)なめづり盡したり。 なにやらん夜半に鳴きわたるなべてのものの聲、掻いひそみて耳澄ませ身横へて、すがひすがひにおし返しゆりかへし寄り来る蛇(へび)はうちやりて、能ふかぎりは最も蛇(じゃ)に遠く離りたる境をさしてゆかんとす。 ちさく細く長く、手の触れ目の及ばんところ、ありとある狭間・空隙残りなくわが身を差し入る。身の神経・感触の及ばんかぎり、ことごとく蛇(じゃ)の氣瀰漫しかつは蛇肉の散りぼひたり。難儀言ふばかりなし。 ヒワ子ちゃん、蛇身蛇界に爽氣ありかつ温みありと、降るばかりなる天上の聲浴びて、わが身はいつかしとどに濡れそぼちぬ。見れば抽斗二段(ふたきだ)目には、大いさ半らばかりの色けざやかなる蛇(へみ)のあふれて、あわて閉づるに三段(みきだ)目なる抽斗のおのづからに押し出ださる。中に大蛇(をろち)のとぐろを巻きて、蟠りてぞゐたりける。 大となく小となく数多の蛇どもきほひつれて、横たはる我が身の上を這ひもごよひ、さては部屋中うごめきわたりてやや暫し、それも飽いたるにやあらんが手我が頸我が腰に這ひのぼりて、絡み合ひ嵌まり合ひてかつは堂塔かつは筏とうちたはぶれ、そのさまあたかも puzzle のごとし。 『蛇を踏む』原文 蛇になどなるまいと念じながら、蛇の用意したものを余さず丹念に?んでのみこむ。咀嚼しのみくだしふたたび咀嚼しのみくだし、皿を舐め夜の中で鳴くすべてのものの声に耳を澄ませ、横たわり間歇的にくる蛇をやり過ごし、私は蛇からもっとも遠い地平を目ざす。小さく長く細く、あらゆる隙間を探して遠くへ遠くへ私の感触はのびていく。のびてはいくのだが、それらすべてのぶぶんに蛇はまんべんなく含まれ散らされている。まったく難儀である。 ヒワ子ちゃん蛇はいいわよ、蛇の世界は暖かいわよ。声が世界中の空から降り注ぎ、降り注いだものでびしょ濡れになる。二段目の引出しにはきれいな色をした中くらいの蛇がぎっしりと詰め込まれ、あわてて引出しをしめると三番目の引出しが自然に押し出され、中には巨大な蛇がとぐろを巻く。蛇らは横たわる私の体を乗り越え部屋じゅうを這いまわり、飽きるとまた私の体にのぼり体の上で搭をつくったり筏を組んだりパズルのように嵌まりあったりする。 (文春文庫) ▼「文藝襍記」表紙へ戻る ▼「詩藻樓」表紙へ戻る |