梗概

秋風盡きざるに、灣口の古き砦より聞こゆるうたかたの琴の調べ濤湧の如し。
中秋の千草彩る地中海、城門をよぎる公女一人ありけり。
敗将の息女にて、今は亡き御父母の産土の城を出でて、御叔母の住み給ふトレドへ向かふ途次なり。御叔母は聖母マリアに仕ふる修道女なり。
グラナダの爽けき旅の途にある公女、秋日の栃の黄葉の美しきに見入りつつ、中空に浮かべる新しき城の精彩に、覚えず駒を止む。心慰めんと雪花石の噴水に身を休めたり。ときに裁きの門よりいできたる門衛に希ふ一夜の宿り。吟遊歌、母遺品の銀の琴の奏上も申し出でたるも『心苦るしき事なれど、願ひは大方叶はじ』と断らる。
林下の門前の空しきに気も塞たがるに、折しも門前に城主帰りきたれり。
『楽を奏すとな。ことの床しければ許さむ』とて、この夜の饗宴に公女の詩譜を聞くを認めたり。モスクの王城に、異教徒の琴の調べ容れ許されたり。
 さても城内の宴は華やぎて、公女の鳴らす琴の調べ高く低く、速く緩く、粛々たる琴線心を修し、近従臣下皆こぞりて洗心滴涙、王の寛く玉光颯爾高き徳の誠を楽奏の興の中胸に刻めり。
明けて朝となりぬ。王の心配りの車馬に守られ公女霧の中を出立せり。淡き雪花紅にそむ宮殿を遥かに懐かしみ謝すが如く中空にしばし止どまりしが、いつしかかき消えぬ。




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