◆愛甲次郎
新サイト「初めての文語」が発足するに当り、今なぜ文語なのかということを改めて問うのは意味のあることだと思います。
日本語には二つのモードがあります。一つが口語であり、もう一つが文語です。大雑把に言えば日常会話語と歴史的文章語です。イタリア語とラテン語の関係に似ています。
皆さんも知っている「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」、「ゆく河の流れは絶えずして」、「あふげばたふとし、わが師の恩」、「春高楼の花の宴、めぐる盃かげさして」などは文語です。
世の中が進むにつれ「話し言葉」と「書き言葉」が次第に分かれてくることは良く知られています。これは話すことと書くことの機能の差からいわば当然のことです。話された言葉がその場限りで消えてしまうのに対し、書かれた言葉は後に残り、また離れたところへ運ばれて伝わります。書かれた言葉は時間空間を越えて広い範囲に伝わる特性を持っています。書かれたものは後世に残るし、また誰の目に触れるか分からないので、自然書くときは慎重になります。時間を掛けてより良い表現を探し、先人の書いたものを参考にします。規範としての文法にも注意が払われます。このようにして「書き言葉」は民族の言葉を磨く努力が結実してゆく土台になりました。
また時間空間を越えて伝わる力によって高度に発達した社会の重要なインフラになりました。例えば中国語に文章語がなかったら歴代王朝はあれほどの帝国を支えて行くことができなかったでしょう。中国は地方によって方言が異なりなかなかお互いに通じないのです。科挙の試験を通り、文章語に精通した優秀な官僚群によって始めて広域を支配する行政機構が可能になったのです。
優れた文章語を持っているのは高度文明の証しです。私は世界には四つの優れた文章語があると思います。ラテン語、漢文、古典アラビア語それと我が文語です。文語は千年に及ぶ長い言語伝統を担っており、他の三言語と比べて決して引けを取りません。更に文語はその発展の過程で漢文訓読法というユニークな技術を生み出し、漢文の古典を日本語として読むことを可能にしているのです。
このように生きた文化遺産として日本が世界に誇れる文語は危機に瀕しており、今正に死語になる瀬戸際にあります。
明治維新のとき優れた欧米の物質文明に触れた当時の日本人は、これに圧倒されました。必死になってこれを学び、取り入れて近代化に努力しましたが、同時に自己の伝統を切り捨てねばならないと思い込んだのです。言葉の世界では話し言葉を基にして標準語(口語)を作り、官民を挙げてその普及に努めました。そのため文語はいつしか片隅に追いやられて行きました。それでも第二次大戦の頃までは公用文は法令を含め文語で書かれていましたし、銀行や大企業でも文語を使っていました。教養のある人達は日記を文語で書き、書簡体である候文で手紙を書いたものです。戦後米国の占領当局は日本が戦争に走ったのはその精神伝統に問題があったとして、その無力化を図りました。言葉の面ではそれは国語改革と言う形で現れました。漢字制限と新仮名遣いがその二本の柱です。
日本語はポリネシア語と並んで音韻的には極めて貧弱な言葉です。わが国の祖先は此貧弱な音韻構造を漢字をうまく活用することによって補い、高度複雑な情報を扱える言語に仕立てたのです。日本語から漢字を除いてしまったら、ちょうど英語からギリシャ・ラテン系の語彙を除くような惨めなことになったでしょう。戦後の漢字制限はそれにやや近いことをやったのです。
また口語は文語の言わば崩れた形ですから、文法を説明するとき崩れていない文語の方から入るのが自然です。崩れたものを元の形を知らせないで説明しようとするといろいろ矛盾が生じます。仮名遣いも同様、歴史的仮名遣いはそれなりの理由があってそうしていたので、それを強引に変えると混乱が生じます。
国語改革の結果国語の質は著しく低下しました。現在日本語に対する関心が高まり、コミュニケーションの質の劣化が問われていますが、その源は五十年も前にあるのです。国語教育の改善には行き過ぎた国語改革の手直しが不可欠ですが、更にそれだけでなく文語の復興とそれによる古典教育の蘇生がぜひ必要だと考えています。
言葉は民族の魂です。文語は脈々として続いてきたわが国の歴史伝統の証人です。文語を核として持つ限り日本語は世界一級の言語です。これを失ったらその魅力とエネルギーは激減します。日本が文語を取り戻すことは、民族の誇りを取り戻すことなのです。今日の日本に最も必要なことではないでしょうか。
文語を死語にしてはならないという決意をもって有志が集い、「文語の苑」というボランテイア活動を始めたのは、平成十五年のことでした。先ず文語専門のウェブサイトを立ち上げることから始めました。その後御茶ノ水女子大学に文語サークルを作ること、教材を整備すること、文語教室を組織することなど努力を積み重ねて来ていますが、いよいよ若手の人達の尽力で口語文による啓発のためのサイトが発足することになりました。これが軌道に乗れば文語復興運動も一層活気付くと期待しています。
◆市川 浩
私たちのウエブサイト文語の苑も、御蔭樣で運動の輪が廣がりつゝありますが、同時に「今なぜ文語なのか」といふ基本的な問掛けに答へる必要も出てきました。しかし、その答へには會員各位それぞれの思ひが交錯してゐるのではないでせうか。私自身を顧みましても、敗戰の翌年中學三年生の時吉田内閣が告示した「現代かなづかい」と「當用漢字」に強い衝撃を受けて以來、今日まで歴史的假名遣を守り通すなかで、多くの方々の御教示や御指導をいたゞく機會に惠まれて活動の理論的根據を摸索してきました。以下の小論は私見としての敲き臺であることを御斷りしておきます。
一、 書き言葉の獨立と機能の恢復
書き言葉が話し言葉の記録から始つたのは事實ですが、その後獨自の役割をも擔ふやうに發展したことを見落してはなりません。まづ漢土でいへば、あの宏大な地域で地方によつて發音も大きく異る中で、漢字の共通が統一國家の成立を可能にしましたし、我が國でも漢字使用の初めは大和言葉の表記が主でしたが、假名の發明を待つまでもなく既に漢字假名交り文の原型が成立し、鎌倉初期いはゆる「ハ行轉呼」即ち語中語尾のハ行音がワ行音に轉換する現象が起るや、藤原定家が假名遣の發音追隨を絶つことで書き言葉の獨立が確定しました。前者の漢土では地理的な廣がりの中で、後者の我が國では時系列的な廣がりの中で書き言葉がそれぞれ獨立し、國家や獨自の文學の成立に大きな役割を果したといへます。
それのみでなく、獨立した書き言葉は話し言葉を洗煉、向上させました。五七調、七五調など韻律に富む詩や文章、特に文語文が人口に膾炙することで、話し言葉をどれだけ豐かにしたか計り知れません。さうしてそれらの簡潔な表現を通じて詞の意味内容が深化し、話す人の微妙な心理状態を推し量る高度の意思疏通社會を實現してきました。殘念なことに現在の口語文は言文一致から發して成立後百年と短く、明治から昭和の戰前にかけて多くの文學者の努力により熟成、發展が進んだものゝ、戰後話し言葉優先の國語政策もあつて、未だ話し言葉からの獨立を果してゐるとは言へません。口語體の獨立には、恰度西歐でのルネッサンスが古典復興であつたやうに、もう一度文語體の原點に立返り、その大きな蓄積を活用しなければなりません。しかしその文語が今衰へてゐる、文語の復興は口語體の書き言葉としての獨立を促し、新しい時代の話し言葉を洗煉する機能を發揮させることになるのです。
二、國語へのかなしみ
「かなし」といふ言葉は現在ではどちらかといへば、怨みがはしさ、悔しさといふ意味を含みますが、文語の世界では「かなし」には「悲」よりも「愛」の意味合ひが強く、例へば沖繩では今でも古い日本語を保存してゐますが、「愛する」といふ言葉が無く、「かなしむ」といふさうです。また百人一首でいへば鎌倉右大臣の「世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも」の「かなしも」は渚まで漕いで來た舟に綱を掛けて曳いてゆく漁師の生業にいそしむ姿に感じた何ともいへない「健氣に美しい愛でたさ」であり、この「かなしい」世の中が續くことを願ふ實朝の氣持がよく表れてゐます。
親と邦といふ、選ぶことのできないものを愛する氣持が「かなしみ」であり、それはすべてを受容れる、即ち大慈大悲の念が根柢にあります。私は、漢字の傳來以來書き言葉を紡いできた先人を敬慕すると共に、一方で二十六文字の言語文化に遭遇して、漢字を呪ひ、假名遣を打毀してきたそのことをも事實として受容れ、その上でなほ、破壞された國語の淨化、再建が可能であると確信し、當にこの「國語へのかなしみ」を胸に文語の復興に微力を盡したいと願ふものであります。
(平成二十二年十二月二十六日)
◆小倉百人一首 (加藤 淳平)
1 その成立
小倉百人一首は、藤原定家が嵯峨に別業を構える息、為家の妻の父、関東の豪族の宇都宮頼綱に依頼されて(1235)、小倉山の麓にあった自らの山荘、時雨亭で、その死(1241)に至る何年かの間に撰(注)したものと伝えられます。
(注)「撰」という字は「選」と紛らわしいですが、「選」はえらぶだけ、「撰」はえらんでまとめること、今の言葉で言えばほぼ「編集」に当たります。
2 日本の歴史の中の小倉百人一首
普通はそれほど意識されておりませんが、小倉百人一首は選ばれた歌人と歌の並べ方に、実に見事な配慮がなされています。最初は天智天皇とその皇女で皇位に就いた持統天皇、その次が万葉集を代表する二大歌人の柿本人丸と山部赤人、最後の締めくくりは後鳥羽院とその皇子の順徳院、その前が新古今集の時代を代表する二大歌人の藤原定家と藤原家隆という具合です。しかも最後の順徳院の歌、「百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり」には、定家自身の万感の思いがこもっていると感じられます。
近年の日本史の研究では、日本が白村江の戦いに敗れ、唐と新羅の攻撃を受けるかも知れない危機に直面して、日本はそれまでの豪族連合国家から脱し、天皇を中心とした統一国家が成立したと考えるようです。首都は、西からの攻撃を受けやすい難波(大阪府)や大和(奈良県)から、周辺に百済からの渡来人が多く、琵琶湖を通じて高句麗との交通の便利な近江(滋賀県)の大津に移され、そこで天智天皇が即位します。しかし皇女の持統天皇が即位するころには、唐と新羅が戦争したお蔭で日本への脅威も無くなり、都は南の大和に還り、律令の整備、永続的首都の建設、国史の編纂、年号の設定、貨幣の鋳造等、唐の国の制度に倣った国造りが進められました。それとともに仏教が普及し、大寺院の勢力が強まると、弊害も生ずるようになります。
皇統がそれまでの天武天皇・持統天皇系から、男系は天智天皇、女系は百済王の系列に代わって、都が奈良から京都に移ると、桓武天皇と嵯峨天皇が新しい仏教の最澄と空海を重用し、日本は唐の文化を学ぶ道をひた走ります。漢詩と漢文が文学の中心となり、漢文で書かれた国史の編纂が何度も行われ、漢詩集が勅撰されます。しかし漢文化優先の時代が続いたのは、907年の唐の滅亡までで、その後は日本の文化伝統優先の「国風文化」の時代になりました。「国風文化」の中心は、仮名文字で書かれた和歌であり、日本最初の勅撰和歌集、古今集が編纂されました。日記や物語等の仮名文字文学も盛んになり、紫式部等の女流文学者が活躍します。政治は、天皇家と藤原氏が交互に実権を握る時代から、藤原氏の全盛時代、天皇が皇位から離れて全権を振るう「院政」へと動き、院政を補佐する武士が勢力を伸ばしました。武士の源平両氏が戦い、勝った源氏は政治の中心を遥か関東の地に移動させ、政治の実権を奪回しようとした後鳥羽上皇は惨敗を喫します。
藤原氏の最上級の貴族に連なる家に属する藤原定家は、深い学識から、小倉百人一首の百人の歌人たちの生きた時代を、歴史的に、また文学の変遷として、展望することのできた人でした。藤原氏を初めとする貴族にもはや政治の実権は無く、後鳥羽上皇のしたような勢力挽回の試みは挫折せざるを得ないことを、知っていたに違いありません。定家は政治にも軍事にも絶望し、文学と文学の力を信じて古典を究めました。後鳥羽上皇の無益な試みを冷やかに見て、鎌倉の三代将軍、源實朝の和歌の師となり、縁を結んだ関東の豪族のために、小倉百人一首を撰します。定家にとって、自らが一生の間に学んで身につけた平安朝貴族文化の精髄を、新興の関東武士たちに伝えることは、最晩年の大仕事だったのでしょう。小倉百人一首のそこここに光る老年の定家の、歴史観・世界観と和歌や文学の鑑識眼は、その後の日本文学と文化、和歌はもとより、さまざまな散文、演劇や舞踊、美術から茶道・華道に至るまで、日本の美の感覚が洗練を重ねる基礎となりました。
3 日本の和歌の歴史と小倉百人一首
日本の和歌がいつ頃から詠まれ始めたかは、定かには分かりませんが、最初の和歌集は万葉集であり、万葉集には、奈良時代後期の759年まで、300〜400年の間の和歌、それも短歌だけではなく、長歌等も収録されております。万葉集の後百年あまりの漢文化全盛時代、和歌は軽んじられましたが、その時代が過ぎて、古今集が編纂されてからは、和歌は「国風文化」の中核的地位を占め、平安時代から鎌倉時代まで二十を越える勅撰和歌集が編纂されます。その中の白眉は醍醐天皇の勅命により紀貫之等が編纂した古今集と、後鳥羽上皇と藤原定家等が撰した新古今集です。
小倉百人一首で藤原定家は、古今集から新古今集に至る八つの勅撰和歌集、即ち八代集(10世紀から13世紀初頭に至る、古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集および新古今集)の時代を主とし、それ以前の万葉集(8世紀後半に成立)時代や八代集の次の新勅撰集(13世紀前半)時代までの歌人百人の和歌を、一首ずつ選びました。平安時代から江戸時代末期まで、日本の和歌の模範は八代集の短歌だと考えられていましたから、小倉百人一首は長く日本の和歌の模範でした。
現代の私たちは、江戸時代の一部の国学者や西ヨーロッパの文学に学んだ正岡子規の、和歌に対する見方の影響を受けて、万葉集の直截で素直な歌を高く評価し、古今集以後の、掛け詞や縁語を多用したりする複雑で解釈が難解な歌や、理屈っぽい歌を嫌います。しかし現在の和歌に対する見方は、文芸評論家の丸谷才一等の努力により、八代集時代の歌を再評価する方向に変化して来ましたから、小倉百人一首の歌の評価は上がって来ています。
4 時代ごとの特色と代表的歌人
(1)万葉集の時代
平安時代初めには、万葉仮名で書かれた万葉集はほとんど読解不能になっており、八代集の第二番目の後撰集の撰者たちが、万葉集をどう読むかを研究しました。その後読解が進み、優れた古典学者でもあった藤原定家は万葉集をよく読んで、自らの作歌にも活用しております。といっても現代の私たちから見ると、定家の万葉集理解には限界があります。そのため小倉百人一首の撰歌には、到底万葉集時代のものとは思われない歌(天智天皇、秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ)や原歌を平安時代風に変換した歌(持統天皇、春すぎて夏きにけらし白妙の衣干すてふ天のかぐ山←春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山)が採録されています。代表的歌人としては、万葉集の成立に深く関与したとされる大伴家持(鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)、今の眼から見れば愚歌としか思われない歌が採られている柿本人丸(現代の表記は人麻呂、足曳きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を獨りかも寢む)、秀歌が改竄されている山部赤人(田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ←田子の浦ゆ打出でて見れば眞白にぞ富士の高嶺に雪は降りける)、異色の存在として、大伴家持の同時代人で唐に渡って官僚となり、当時は唐の一地方だった今のヴェトナムの節度使にまで出世した安倍仲麿(現代の表記は阿倍仲麻呂、天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも)があります。
(2)六歌仙の時代
平安時代初頭の漢文化全盛時代に、和歌の作者として知られた六人の歌人があり、六歌仙と呼ばれました。小倉百人一首には、六人のうち五人の歌が採録されておりますが、中でも自由奔放な歌風で知られた在原業平(千早振る神代もきかず龍田川から紅に水くくるとは)と、独特なユーモア感覚をもつ遍照(天津雲の通ひ路ふきとぢよをとめの姿しばしとどめむ)の二人の皇族出身者、絶世の美人として、また老醜をさらす老婆として数々の伝説を生んだ小野小町(花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに)が、万葉集時代とは違った漢詩の影響の濃い歌を作りました。このほか小倉百人一首には、藤原氏が廃位させた陽成天皇(筑波嶺のみねより落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる)、代わって天皇の位に即いた光孝天皇(君がためはるの野に出でて若菜つむ我が衣手にゆきはふりつつ)、ともに後世の源氏物語の主人公のモデルとなったと言われる河原の左大臣、源融(陸奥のしのぶもぢすり誰故に亂れそめにし我ならなくに)と在原業平の兄の在原行平(立別れいなばの山の峯に生ふるまつとしきかば今かへりこむ)、宇多天皇に寵愛されて皇子を設けた伊勢(難波がた短かき蘆のふしの間も逢はで此の世をすぐしてよとや)、それに秀れた漢学者であった菅原道眞(此の度はぬさも取りあへず手向山紅葉のにしき神のまにまに)と大江千里(月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど)が、顔を見せております。
(3)古今集の時代
古今集は日本最初の勅撰和歌集であり、後世から、理想的な政治の時代と称えられた醍醐天皇の延喜の世に、編纂されました。それまでの唐の文化だけを模範とする漢詩の全盛時代から、唐が滅びて日本の文化伝統に眼を開いた「国風文化」の時代の、開始を告げる歌集です。小倉百人一首に収録されたこの時代の和歌は、平安朝を代表する明るく、駘蕩たる気分の歌が多く、代表的歌人はまず、古今集の四人の撰者、仮名序の著者である紀貫之(人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける)以下、凡河内躬恒(心あてにをらばやをらむはつしもの置きまどはせる白菊のはな)、壬生忠岑(有明のつれなく見えし別れより曉ばかりうきものはなし)、紀友則(久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ)です。古今集撰者の身分は高くなく、最高が紀貫之の土佐守ですが、小倉百人一首に選ばれたこの時代の歌人の中には、最高の官職を歴任した藤原忠平(小倉山峯のもみぢ葉心あらば今一度のみゆきまたなむ)、堤中納言と呼ばれた藤原兼輔(みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか戀ひしかるらむ)もおります。
(4)後撰集、拾遺集、後拾遺集の時代
この時代の代表的歌人は、まず後撰集の撰者である藤原伊尹(哀れともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな)、清原元輔(契りきなかたみに袖をしぼりつつすゑの松山波こさじとは)、大中臣能宣(御垣守衛士のたく火の夜はもえて晝は消えつつ物をこそ思へ)の三人と、朗詠に適した漢詩と和歌を集めた和漢朗詠集の撰者で、拾遺集の撰者に擬せられる藤原公任(瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れて猶聞えけれ)です。その他の男の歌人としては、村上天皇の治世の「忍ぶ戀顯る」の題の歌合わせで、首位を争った平兼盛(忍ぶれど色に出でにけりわが戀は物や思ふと人の問ふまで)と壬生忠見(戀すてふ我が名はまだきたちにけり人知れずこそ思ひそめしか)、この二人より身分は低く、奇行で知られながら歌の才は認められていた曾禰好忠(由良の戸をわたる舟人かぢをたえゆくへも知らぬこひの道かな)、やや軽率な才人藤原實方(かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじなもゆるおもひを)が挙げられます。しかしこの時代は、和歌のみならず、日記、物語、随筆、歴史物語等の分野で、女流文学者が綺羅星のように輩出した時代です。小倉百人一首にも、平安朝第一の女流歌人和泉式部(あらざらむ此の世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふ事もがな)とその娘の小式部内侍(大江山いく野の道の遠ければまだ文も見ず天のはし立)、「かげろふ日記」の著者の右大将道綱母(なげきつつ獨りぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる)、「源氏物語」の紫式部(巡りあひて見しや夫れともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな)と娘の大貮三位(有馬山いなの笹原風ふけばいでそよ人を忘れやはする)、「枕草子」の清少納言(夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の關はゆるさじ)、「榮花物語」の作者と言われる赤染衛門(安らはで寢なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな)の歌が採録されています。
(5)金葉集、詞花集の時代
八代集も第五、六番目の金葉集と詞花集になると、繊細で技巧を凝らした歌とともに、しっとりとした情趣の歌を重んずるようになり、後の新古今集に続く歌風に変わって行きます。この時代の歌人として小倉百人一首は、まず金葉集の撰者、源俊頼(憂かりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを)とその父で、この時代の歌人として第一人者だった源經信(夕されば門田のいなばおとづれてあしのまろやに秋風ぞふく)、詞花集の撰進を指示した崇徳院(瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ)と撰者の藤原顯輔(秋風に棚引く雲の絶間よりもれ出づる月の影のさやけさ)の秀歌を採っています。小倉百人一首に選ばれた他の歌人には、女流の相模(恨みわびほさぬ袖さへあるものを戀に朽ちなむ名こそをしけれ)と周防内侍(春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそをしけれ)、仏僧の能因法師(嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川のにしきなりけり)と行尊(もろともにあはれと思へ山櫻花より外にしる人もなし)、高名な学者の大江匡房(高砂の尾上の櫻咲きにけり外山の霞たたずもあらなむ)があります。崇徳院とともに、平安後期の政治を一変させた保元の乱の当事者、藤原忠通(わだの原こぎ出でて見れば久方の雲居にまがふ沖つ白なみ)と崇徳院の母で、すべての問題の発端となった待賢門院に仕えた待賢門院堀河(永からむ心もしらず黒髪のみだれて今朝はものをこそ思へ)の歌が、採録されているのも興味深いことです。
(6)千載集、新古今集とそれ以後の時代
この時代に入ると藤原定家の父、千載集の撰者藤原俊成が、前代の歌風を発展させて、「幽玄」を唱えます。次の新古今集は、後鳥羽院自身が指導し、藤原定家が時に歌の道で対立しながらも協力して、俊成の「幽玄」をさらに深め、その後の日本文化の基礎となる美の感覚を完成させました。藤原定家は承久の変の後、もう一つの勅撰和歌集、新勅撰集を撰進します。小倉百人一首が採録した歌人としては、千載集の撰者、藤原俊成(世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる)、新古今集の主導者である後鳥羽院(人もをし人も恨めし味気なく世を思ふ故に物おもふ身は)と撰者の藤原定家自身(来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくや藻鹽の身もこがれつつ)、藤原家隆(風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける)、藤原雅經(みよし野の山の秋風小夜更けてふる郷さむく衣うつなり)のほか、僧籍にある歌人、西行(歎けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな)と寂蓮(村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ)があります。この時代の特徴は、最高位の貴族が秀れた歌を詠んでいることで、後鳥羽院以外でも順徳院(上掲、百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり)、太政大臣だった藤原良經(きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき獨りかもねむ)と藤原公經(花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり)、鎌倉の三代将軍、源實朝(世の中は常にもがもな渚漕ぐ海士の小舟の綱でかなしも)、僧の最高位にあった慈圓(おほけなく浮世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖)と後白河天皇の皇女の式子内親王(玉の緒よたえなばたえね長らへば忍ぶる事のよわりもぞする)が、その例です。古今集と比べると大きな違いですが、保元の乱以後の武士の台頭によって、天皇家(王氏)と藤原氏を中心とした旧来の貴族が政治的実権を失い、文学と文化の最高度の洗練に関心を向けたことを示しています。
5 20人の歌人・20首の歌
最後に小倉百人一首の百人から、私の個人的な好みによって、20人の歌人の20首の歌を選んで見ました。これらについては後日少し解説を加える予定です。
(1)三絶(私が小倉百人一首中最高と思う鎌倉時代の歌 三首)
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに やくや藻鹽の身もこがれつつ(藤原定家)
風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける(藤原家隆)
世の中は常にもがもな 渚漕ぐ海士の小舟の綱でかなしも(源實朝)
(2)技巧と典拠の歌 三首
花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)
契りきなかたみに袖をしぼりつつ すゑの松山波こさじとは(清原元輔)
かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじなもゆるおもひを(藤原實方)
(3)叙景歌 三首
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(紀友則)
秋風に棚引く雲の絶間より もれ出づる月の影のさやけさ(藤原顯輔)
村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ(寂蓮)
(4)恋の歌 五首
難波がた短かき蘆のふしの間も 逢はで此の世をすぐしてよとや(伊勢)
忍ぶれど色に出でにけり我が恋は ものや思ふと人の問ふまで(平兼盛)
逢見ての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり(藤原敦忠)
由良の戸をわたる舟人かぢをたえ ゆくへも知らぬこひの道かな(曾禰好忠)
永からむ心もしらず 黒髪のみだれて今朝はものをこそ思へ(待賢門院堀河)
(5)詞書きによって歌が詠まれた場景の知られる歌 三首
人はいさ心も知らず ふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける(紀貫之)
春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ(周防内侍)
夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の關はゆるさじ(清少納言)
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