侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦
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  岡崎久彦


  四月二十日 謹解其二「支那通」之悲哀  


 「謹解」に愚見を述べしに、粤王大人、應(いら)へ給ふも恐悦至極なり。御寛恕を得て鐵面皮に更に上塗りを申す。


 訓詁の手法に據りて文義を明らかにし、更に傍証を偶々見出して之を補強するを得るは痛快事なり。松井大將の事績を調べしに、昭和十三年十二月十一日付東京朝日新聞に特輯記事を見付けたり。前後には南京陷落一周年の宣傳工作にや、武勇傳數多報導さるるも、その中に、松井大將への訪問記事、一際異彩を放てり。


 「詩で語る一年前」なる見出しの下にて報じたるは、意氣揚々たる第一首にてはなく、あの陰鬱なる詩なり。文中大將は「わしは何も語りたうない─また當時の本當の心境を語る時は未だ來ぬ」と述べ、「詩をさらさらとしたためて」、記者に示したりといふその詩は、「日記」のものとはやや異なれり。


  紫金陵在否幽魂
  來去幻氛野色昏
  往會沙場感慨切
  低徊駐馬中山門



 大將は一年推敲を重ねたる由にて、この苦吟には強き心理的背景あらざるべからず。大將は記者子に、「孫文は理想家、蒋介石は感情家」と縷々對比を述べたるに、孫と蒋を比較する第一義はここに傍証を得たりと愚考す。


 しかるに、第二義、即ち詩人が、眞情に於いて、孫文の正氣に對比させんとせる物は何ならむ。詩人は一年間推敲して、「妖気」を「幻氛」と改めたるなり。大將の「わしは不幸今兵をひきゐてやつてきた」といふ述懐を踏まへれば、ここに彼我善惡の境界は一層韜晦せられ、紅塵を看破し、東亞日中間の一切の不幸なる出來事を、一種の諦念とともに、此く捉へたるものならん。粤王大人の「「妖氣來たり去りて」は孫文の遺志空しく日中相せめぐを意味し、「妖気」は雙方を指すものならん。」とのたまふは、「幻氛」においては尚ほ當て嵌まり、誠に達詁と謂はざるべからず。「妖氣」解釈の謎は、彼我双方の一切の不幸事なること、ここに明かとなれり。


 これほど孫文を敬愛し、中山陵の守備を嚴命したる大將の今や身敗名裂たるは、之を悲劇と言はずして何ならむ。新聞紙上、大將の「武力による南京占領にも國民政府の役所も大した損害を與へず、中山陵もわが將兵の武士道精神により安全にまもられた。」と述べたるを看るにつけても、大将は「支那通」として、元が金の陵墓を暴き人望を失ふに懲り、清軍は入關後随所に激烈なる戰闘を重ねながらも、明陵を保護して人心を掌握せんとしたる故事に習ひ、中山陵に精鋭中の精鋭を割きて部署せるものならむ。舊軍において金元清朝史を研究したる痕跡は尚ほ徴することは可能なるも、その虚しきこと、案を拍きて長嘆息を禁じ得ず。


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