侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦 |
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岡崎久彦 「謹解 其三 素夫先生の書」 王蒼海 大人、嘗て初めて素夫先生の書を得て、博報大堂にて晩生ならびに門人に示し給へるは平成五年の消夏の席なり。その時、晩生、麦酒の勢ひに騎りて、青年客気に逸りて申さくは、正に漢詩文上、「虹」は、詩経国風の「 」の章に歴代注釈の解するが如く、はかなき一夕の野合の象徴にして、典故は十分、風刺の辛辣なるも幽黙(ゆうもあ)の漂ひ、思ひ邪なき即興の妙詩なるも、惜しむべきは、押韻に猶ほ稍や推敲の余地在り、「石田」を動かすべからざれば、「短」字を「鮮」(すくなし)、「妍」(あだなり)、「憐」(あはれなり)となさば、直ちに平韻「先」を踏み、堂々たる古詩とならんと。大人この解釈を聞き、破顔一笑し給へり。 今、大人の玉章を拝見するに、宛然と十余年前の文雅の席を思ひ出さるるも、先生の文字を妄動せんとする僭越の言、不惑を越ゆれば汗顔の至りなり。さらに、本日、大人の機智により、人書倶に無しといふことを免がるる佳話を聞きては、酔中に成る即興詩を十余年経て正確に再び酒興に乗じて書き玉ふ素夫先生の記銘力の確かさには只管敬服なり。この逸事にても、大人と先生の夫々一箇の明白人、水魚の交たるを知るべし。 「 」 在東,莫之敢指,女子有行,遠父母兄弟。 朝 于西,崇朝其雨,女子有行,遠兄弟父母。 乃如之人也,懷昏姻也,大無信也,不知命也。 「毛詩序」 ,止奔也。衞文公能以道化其民,淫奔之恥,國人不齒也。 ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |