侃々院>「岡崎偶感」岡崎久彦
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  岡崎久彦


  南京入城の七言絶句 一月二十八日


 神田の書肆新たに入手せる書幅録中に、松井石根大將の南京入城の詩を見出せり。





 本年は南京陷落七十周年にして、南京事件の映画數多く上映豫定の折から、これを購ふ。價五萬圓也。近年住宅中に床の間消滅せしため、書軸、ことに大判の軸はほとんど捨て値なりと言ふ。


詩に曰ふ。


  燦矣たり、旭旗石城(南京城の異名)に
  江南の風色、忽ち澄清
  王師百萬、軍容肅たり
  仰ぎ見る、皇威八紘に輝くを。



 偶々王蒼海先生來訪あり。曰く、これ珍品なりと。先生歸りて早々に、『松井石根陣中日記』(南京占領時の前後)を致(おこ)し賜ふ。


 その日記中、昭和十二年十二月十八日のところに松井大將、當日二詩を謹書し、陣没者靈前に手向けしとあり。一詩は、右とほぼ同じ也。おそらくはその後平仄を勘案し若干の修文を施せしものならん。


奇異の念を禁じ得ざるは第二の詩なり。曰く。


  紫金陵、幽魂在りや否や
  妖気來たり去りて、野色昏し
  沙場を經會して、感慨切なり
  馬を駐めて低徊す中山門



 前詩には、「方面軍司令官 松井石根」と記し、後詩には「松井大將」とのみ記したり。


 前詩の公式的態度に比し、後詩の陰鬱さ、隱さんとして蔽ひ難きものあり。戰歿將兵の靈を意味すとも解せらるるも、皇軍兵士の靈を妖氣と呼ぶは奇怪なり。


 同日記中には、いはゆる南京事件の實在を示唆する文言各所にあり。


 同十二月十八日の日記中にも、「この朝各軍團參謀長と會し、特に一同に對し、一に軍紀、風紀の振肅」を訴へしとあり。二十日には「一時我が將兵により少數の奪略行爲、強姦等もありし如く、多少は已むなき實情なり」と、概ねは平静なる南京城内の状況を記するも、小規模の事件ありしを認め、二十六日には「南京、杭州附近又奪略、強姦の聲を聞く。幕僚を特派して嚴に取り締まりを要求すると共に責任者の處罰など、直ちに惡空氣一掃を要するものと認め、嚴重各軍に要求せしむ」とあり、南京城外周邊地域において相當なる暴行ありしを示唆するものあり。


 南京事件當時余は小學一年生也。當夜歸宅せし亡父余に告げて曰く、外務省、參謀本部皆悲憤慷慨せり、「乃木大将ごとき人物陣中に在らば、かかることの無かりしものをと」。


 爾來余、南京事件存否の論、喧びすしき中に在りて、朋友の多くは南京事件を虚構として否定するも、この幼少時の記憶、それと同調するを許さざるものありき。


 南京の次に占領せし大都市は武漢なり。


 司令官岡村寧次、南京事件を繰り返しめざらんとし、嚴命して寸毫も犯さしめず。東京裁判において、日本軍規律嚴正なりの證言續出して、裁判長それ以上の證言を却下せりと。


 南京事件を否定する立場の論者、これを以ちて日本軍規律嚴正の證據と言ふ者あり。余を以つて言はしむれば、これぞ南京事件實在の反證ならん。


 しかれども戰爭全期間を通じて、日本軍中國におきて暴虐を極めたりとの史観は誤り也。事變當初占領せし北京におきては、三七年前の北清事變における白人兵の暴行の記憶未だに消え難く、日本占領軍司令官の銅像を建てんとの議ありたりと聞く。


 岡村寧次、その後方面軍最高司令官となり、敗戰に至るまで、軍紀肅正に努む。


 終戰までに日本が占領せし地域の最西端にありし洛陽におきては、名刹、珍寶寸毫も犯されず、未だに貴重なる觀光資源として殘れり。桂林を占領せしは熊本の第六師團なるも、戰後熊本と桂林は姉妹都市となれり。ドイツ軍に占領されしポーランド、ロシアの諸都市におきて斯かることは想像し得べくも非ず。


 終戰時日本軍、現地住民に惜しまれつつ去りたりと傳へらるるは、当時の中國の實情を知る者にとりて、決して奇異なる事象に非ず。日本軍去りし後いかなる軍閥、土匪これに代はるや測り知れざるものあり。共産軍到らば舊階級は掃滅されんこと必至なりき。中國住民、不安の念を以ちて日本軍を見送りしは自然の情ならん。


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