侃々院>[萬世の為に太平を開く ]冨田 豊
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[萬世の為に太平を開く]  冨田 豊


 去ぬる戰に召されし予は、中支那杭州灣北邊の地にて終戰を迎へり。九月九日に南 京に於て降伏調印式行はれ、旬日にして予らの武裝解除も終れり。予らはその後も階 級章を外さず、軍隊秩序を維持し、宮城遙拝、軍人勅諭奉唱も舊の如く續けぬ。


 捕虜の身なるに、「戰勝國」中國人の耳に届き得る状況にて、朝夕一つ、軍人は忠節を盡すを本分とすべしと唱ふるはをかしとなりたるにや。替ふるに終戰詔書を以てすることとなり、謄寫版 にて刷りたるが交附され、一週間以内に全文を暗記せよとの兵團長閣下の命令あり き。爲に部隊長がじゃんけんに勝ち、中國への勞役提供を免れ、のんびりとせる日々 を過しをりし兵隊らに大恐慌をもたらせり。連日、半年も唱へしかば、今も途切れ途 切れながら「朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾 せんと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ」に始る長き文章の凡そを唱ふることを得。  宣戰詔書に比して躍動感こそなけれ、格調高き文章にて予らに終戦の事由と併せて 将来への心構をも説き明かし給ひぬ。即ち、帝國臣民の康寧を圖るは朕の拳々措かざ る所にして、戰爭目的も東亞の安定を庶幾するに出で、他國の主權、領土を侵すが如 き志はなかりき。しかるに交戰已に四歳を閲し、將兵の勇戰、衆庶の奉公各最善を盡 せるに拘らず,戰局、世界の大勢ともに利非ず、加之,敵は新に殘虐なる爆彈を使用 して無辜を殺傷し、慘害測るべからざるに至る。尚、交戰を繼續せば我が民族の滅亡 を招來し、人類の文明をも破却すべしてふ状況になりたれば「米英支蘇四国の共同宣 言」を受諾せりとされ、更に「五内爲に裂く」なる形容を用ゐて戰爭犠牲者を痛惜し 給へり。


 閣下が予らの頭に叩き込まんと欲せしは、その後に續く次の文章なるべし。


 惟ふに今後帝國の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も朕善く之を 知る。然れども朕は時運の趨く所堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び、以て萬世の爲に 太平を開かんと欲す。


 朕は茲に國体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在 り。若し夫れ情の激する所,濫に事端を滋くし、或は同胞排濟互に時局を亂り、爲に 大道を誤り、眞義を世界に失ふが如きは朕最も之を戒む。宜しく擧國一家、子孫相傳 へ、確く神州の不滅を信じ 任重く道遠きを念ひ、總力を將來の建設に傾け、道義を 篤くし、志操を鞏くし、誓て國体の精華を發揚し、世界の進運に後れざらんことを期 すべし。


 萬世の爲に太平を開くなる語句重く響きしが、こは、近思録の「天地の爲に心を立 て、生民の爲に道を立て、去聖の爲に絶學を繼ぎ、萬世の爲に太平を開く」を踏へし なるべし。張横渠は士太夫の理想を斯く説きしが、往年の兵士はそを信奉して努め勵 み、焦土を世界有數の經濟大國に作り上げしのみならず、今日までの長き平和をも生 み出だせり。予もまた、それに寄與し得し一人として誇り得ると自負しをれり。


 騰寫版を切りし男「堪へ難きを堪へ忍び」となして以下の五文字を脱落せり。そと は知らず奉唱せしも、頭の隅に何となふ違和感を感じをれり。復員して數年後、石坂 洋次郎の作品に夫婦喧嘩せし妻の仲裁人に此の語句を使ひて訴ふる場面ありき。改め て詔書の搭載ある新聞にて正しき文章をそれと確認し、予の文章感覺に安堵を覺えし ことあり。


 草案には時運の趨く所なる文字は無かりき。政府顧問安岡正篤の春秋左氏傳の「信 以て義を行ひ、義以て命を爲す」なる語句より選びて「義命の存する所」となせし に、難解なりとして斯く改めしと謂ふ。安岡は「こは時の運びにて然なり、止むを得 ず堪へ忍ばんてふ義にして、理想も筋道も無く、目前の損得のみしか考へざることと なるべし。詔書は新日本建設の礎となるべかりしに彼の語句にて然るべき意義を失ひ ぬ。以後の政治の理想も筋道も喪失せしは、一に義命を時運に改めし故なるべし」と 嘆きしとぞ。


 こは左傳成公八年經に、「晉候、韓穿をして來たりて文陽の田を言ひ、之を齋に歸 さしむ」とあるを踏へての語句なり。此の地は魯の故地なりしも、成公二年、齋に國 境を侵されて奪はれにけり。魯は衛と共に晉に援を求め、晉将八百乘の兵を率ゐて 魯、衛と共に齋を鞍の地に攻めて、これを大敗せしめたり。齋は晉に紀甑玉珪を獻 じ、文陽の地を返して和議整ひぬ。魯の太夫季文子、韓穿を餞せし席に於て曰く「大 國は義を制し、以て盟主たり。故に諸侯も徳に懐きて貳心あることなし。今、二命あ りて齋に帰さしむも、義命こそ小國の望みて懐く所なれ。義立つなくんば四方の諸侯 も解體離反せん」と申しいれたり。更に、 女は爽(たが)はざるに士はその行を貳(うたが)へしなり   士こそ極りなくしてその徳を二三せしなりと詩經衛風「氓」の男の心變りを憾む一節を引き、「七年の中、一たび與へ一たび 奪ふ。士の二三するすら妃偶を失ふ。況や覇主をや」と訴へたりとあり。


 無差別爆撃や、原子爆彈にて多くの無辜を殺し、または中立條約を破りて一方的に 戰闘に出でし勝者に信義を求めること當初は理解し難かりき。安岡ほどの碩學が、か かる背景を無視して字句の文字面に拘泥せりとは考へられず。諸書を漁りて、義命て ふは道徳上の至上命令の義にして、臣下の節義なる大義名分とは異なり、その主語が 天皇にあらせらるることに氣付きぬ。されば人類の文明、皇祖皇宗の神靈、我ら赤子 をも慮り給ひての聖斷を斯く表現せるものと解り、萬世の爲に太平を開くなる語句と も照應すと納得せり。同時に、語句の文章に占める重さを痛感せり。


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