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詩の心 高田 友 聲樂家・ 音樂家には、國語を愛するの人多しと聞くや久し。今、藍川氏の御説に接して、 藍川氏は、歌詞を疎略に扱ふなかれと仰せらる。 「春の小川はさらさら行くよ」は、かつては「さらさら流る」なりき。昭和十七年の改訂にて、「さらさら行くよ」に變更せられたりとの由。「流れる」に非ざる「流る」は、文語なるに據りて、小學生には難解なりとの淺智惠なり。 當用漢字・現代假名遣の制定は、傳統文化を弊履の如くに思ふ人々の、戰後の人心定まらざるを奇貨とし、占領軍に阿諛追從して、兇行に及びたるなり。然りと雖も、「流る」を「行くよ」に歪めたるは、いまだ敗戰に至らざるのとき。かほどの昔より、文部省は文化破壞に著手してありき。 藍川氏、先帝陛下の金田一京助氏に謁を賜ひたる逸話を披露せられたり。ときに、金田一氏に向ひて、「小川はいづこへか行く」と敕問あらせらる。いづこへか去りて、消失せんとすや、との 藍川氏、また、文部省唱歌「冬景色」を引きて、歴史的假名遣の表記異なる音を區別して歌ふべしと主張せらる。 さ霧消ゆる この詩の、「江『え』」「 「ん」はnなる子音に相當す。この子音一箇を音符一つに宛つることを得るは日本語のみ、と藍川氏は仰せらる。 小生もまた、米人教師と言語を論じて、「日本語の『ん』は單獨にて一つの音節を作る」と申したり。米人、肯んぜずして、「單獨の子音は音節を作るを得ず」と反駁せり。つひに意見の一致を見るに至らず。藍川氏の御説を拜聽して、この事實に注目せられたるは、實に日本の音樂家なりと感銘を深くする所ありき。 美しき日本語を墮落せしむる元凶は學校教師なり、と藍川氏は嘆息せらる。 「めだかの學校」の「だれが生徒か先生か」の「生徒」「先生」を、現今の音樂の授業にては「せえと」「せんせえ」と歌はしむ。 金田一京助氏の「表音國語辭典」の初版は、「經營」を「けえええ」と表記す。世人の反撥甚だしきを以て、後に「けいえい」に改む。 通常の會話にても、「けえええ」「せえと」「せんせえ」と發音するには非ず。勿論、明確なる「けいえい」「せいと」「せんせい」にも非ずして、曖昧なる中間音を用ゐてありと言ふべし。 中間音にてあらば、いづれの表記にても可なり、と言ふなかれ。音符に宛つるにも、いづれにても差障りなきに非ずや、と思ふべからず。 古き表記を新たなる發音にて讀むは自然の流れなり。然れども、その逆は眞ならず。 「頬」は「ほほ」と「ほお」のいづれとも定まらず。元來は「ほほ」なれども、發音崩れて「ほお」に轉化しつつあるなり。 「ほほ」と書きて、「ほお」と讀むは 表記の崩れは、限界を越ゆるを許さず。 歌の歌詞も同斷なり。生徒を「せえと」と歌ひたるには、その崩れ限界を越えたるを以て、猥雜の響きあり。 美しく歌はんと欲せば、古き發音を遵守せざるべからず。「せいと」と「せえと」の中間音をいづれかに定むるの必要生じたるには、「せいと」を選ばざるを得ず。 藍川氏の理路整然たる論旨、 加へて、氏は、「歌唱と話し言葉には根本的なる差あり」と 學校の教師、ことに組合關係者は、教育は二の次、イデオロギーの信奉を第一に考ふるの傾きあり。二者擇一を迫られたるには、常に「一見進歩的」なる選擇肢を選擇す。 「せえと」の「せいと」に比較して、進歩的に聞ゆとは納得し得る所なり。「せいと」と歌はせたらんには、保守反動の汚名を着る 斯くの如きイデオロギーに隨ふならば、「え、ゑ、へ」を、文字に於ても、歌唱に於ても、別個の扱ひをするは以ての外となる。 藍川氏は、古代歌謠の發音に關聯して、「言葉を用ゐて神に語る」に非ず、「音樂を捧げて神に訴へたるなり」との所信を述べさせ給ふ。 小生も常々、斯くは思ひゐたり。 基督教にても、主要なる祈祷は、戰前は 近時、カトリック教會は、「解放の神學」の影響 かつては、聖母に訴ふるにも、文語を用ゐたり。文語は 今や、祈祷より詩歌は失はれたり。 一信徒、ミサの席上、無作法なる子供の、 文語を用ゐるに於ては、子供の高聲にて叫ぶは難かるべし。その一事を以てしても、文語の優れたること論を 莊嚴なる雰圍氣の攪亂せられたらんには、改めんと欲するは、是、常識人の常識なり。然り而して、「文語は理解に難澁す。民主的に非ざるを以て排斥すべし」と教會は考ふるが如し。ややもすれば、「たとひ騷々しくとも、子供の聲は天使の聲」なる性善説に惑溺するならん。是、世に僞善と 祈りの平穩、信仰、聖母に奉る敬意。それを越えて、イデオロギーの斯くも尊きか。 進歩的なるカトリックは言ふ。「文語を好みて口語を 文語は形式を重んずるのみなるを以て排斥すべしと唱ふるは、花束の如きを捧ぐるの要なしと言ふに似たり。 聖母は花束を 美しき花を以て聖母を 文語は花束なり。口語を以て代用するは、造花を以て花束に替ふるなり。 日本は 今、口語一邊倒のイデオロギーに據りて、美しき傳統は 此を如何せん、此を如何せんと言ふに非ざれば、早晩日本は精神性を失ひたる 藍川氏は、音樂を例に示して、世に警鐘を鳴し給へり。 此れに續く有志の多からんことを。 ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |