「子ども」表記を駁す 鹽原經央
去ぬる平成丙戌の歳(拾捌年)、時の梅原克彦仙臺市長、此年度に新設の「コドモ未來局」の「コドモ」の表記を「子供」と爲し、政策の名稱及び其文書中のコドモの凡てを「子供」と漢字にて表記せむとの方針を打ち出せり。然るに人權團體等より「子供」は非にて「子ども」の表記を用ゐるべしとの批判の聲上がるとの由、余輩聞き及べり。此處に於て余輩、以下の一文を草して、輕佻浮薄なる風潮に鐵槌を下したり。
彼等云ふ、「子供」の「供」は之從者の意にて、子供の人權損ふるの書き方なるべしと。斯る主張、社會運動家羽仁説子を以て嚆矢とす。爾來、此言説を支持したる者等の意識的なる「子供」表記撲滅運動擴がり、之が功を奏して、昨今にては教育界のみならず一部新聞に於いてさへ、事の是非辨ふることなきまま之に追從して「子ども」の表記氾濫するに至れり。
それ、國語表記の基本、漢字假名交じり文を以て他無し。其は漢字を受容してより今日に至るまで永き世を經るうちに幾世代にも亙る先人の工夫を重ね來る知惠の結集とぞ云ふべき。我等若し國語を丸ごと假名書きにて、あるはまた羅馬字にて書きたるを想像せば、漢字假名交じり文の如何に讀むに易く、理解し易からん事、たれも納得して疑はざる處なり。
余輩云ふ。先人は何ぞ純粹和語たるシゴトを「仕事」、バアイを「場合」なんどと漢語の如く書き表したるや。其は「しごと」「ばあい」の如く書かば、語の切れ目に曖昧性生じて、讀みにくく理解しにくきこと必定なればなり。「仕事」「場合」の如き漢語風表記は其缺點を克服したる先人の知惠とぞ知るべき。「子供」も之に變らず、「こども」にても「子ども」にても國語文の明晰性を闕く。
抑々「子供」と云ふ語の大本を遡らば「子」と複數を表す接尾語「ども」より成れり。其が年を經るに隨ひ次第次第に「子」と「ども」の融合進みて、「ども」の複數を表すの概念薄るるに至り、「子供たち」の如き用法の成立する事と爲れり。「子供」とは此融合概念を表す表記にて、之をして「子ども」に書き換へしむれば、名詞に接尾語の附屬したる「子・ども」に還元する事云ふを俟たず。斯くして「子どもたち」は「子たちたち」と、國語にあらざる表現と成り果つるなり。
「子供」の「供」の當て字なれば「子ども」の表記を以て良しとする説を唱ふる輩もあり。當て字を駄目と云ふは蓋し國語を知らざる者の妄論と云ふべし。
譬へば見よ、「氣配」は國語のケハヒ(ケワイと發音)を假名に隨ひケハイと讀み違へして成り立ちたる表記なり。「波止場」は停泊の意の「泊つる」の派生語ハトバに當てたる漢字表記なり。斯る類ひの當て字は國語語彙の至る所に見出さるる國語文化の知惠と云ふべし。當て字を凡て否定せば、國語の表記體系のみならず語彙體系をも窮屈にするは必定、之「角を矯めて牛を殺す」の圖と云はずして何ならん。
「子供」の「供」は從者の意なれば子供の人權を慮りて「子ども」と書かざるべからざるなりとの屁理屈も、實に底の淺き形式主義的愚論なり。其が形式主義を逆手に取らば、「子ども」の「ども」は、馬鹿者ども、野郎ども、蟲けらども等の用例の示すが如く、侮蔑の匂ひ内包せる事に於て、寧ろ「子供」より子供の人權を無視したる書き方にあらずや。
人皆子供期を經て大人とは成れるなり。子供には經驗智乏しく、家族また周圍の者等手を差し伸べて保護し、教育し、躾て一人前にすべきものなり。其の人生の基礎を如何に築くべきかを拔きにして、大人と同じき自由を、自主性を、自己決定をなんどと論ずるは人間の發達過程を考慮せざる暴論と云はずして何あらんや。子供は大人の手を燒き、心を配りて扶育すべきものにて、子供の人權の尊重を云ふならば、寧ろ大人の從者と爲りて人間の勉強を爲すを重く見るは理の當然。「子供」を「子ども」に書き換へば、大人の斯る子供への意識の釀成に裨益する等云ふは中身のからつぽなる教條主義的言説に過ぎず。若しや子供の人權の守られざる状況あらば、其は國民がコドモを「子供」と書く故にてはあらず。漢字に責任を轉嫁すべからず。
言葉は同時代人のみの所有物にあらず。いにしへより今日、今日より未來へと連綿と繼續する或る民族の共有する約束事なり。公用文の書き方の「子供」を以てするは、斯る暗默の約束事に基づくものと理解すべし。羽仁説子の「子ども」に限らず、何者かの思ひつきにて國語の約束事を安易に變ふる事罷り通らば、啻に表記の混亂を招來するのみならず、頓て國語體系其物も融解せざるべからざるなり。かくて先人の遺したる文物讀むこと能ざれば、讀むことを止め、先人の文化を次代へと繼承するを不能と爲す。民族に於て之に如く不幸やはある。
類人猿にては文字を持たず。然れば或る個體の死は、同時に其生涯に於ける經驗智の死滅を意味するなり。文字を有する人間に於いては個體の經驗智を肉體の死を超えて次代へ繼承するを得。斯くの如くして累々層々たる文化を積み上げ來る。表記を「子ども」にせよと云ふは、我が國の傳統、はたまた先人の積み上ぐる知惠の體系を毀損せんとする、其反文化性に於て、隣國の經驗せる彼の文化大革命と同じき災厄を蒙らしむるに等し。
仙臺市長の「子供」表記の方針は、國語の本質を洞察して誤り無し。「子ども」は國民共有の最も基本的なる文化財たる國語表記を破壞せんとする輕薄にして無責任なる政治運動なり。
仙臺市長には斯る偏倚、奇妙の雜音に惑はさるる事無く、是が非にても「子供」の表記をば貫かれんことを祈るや切。
(此文語文は平成拾捌年參月參拾壹日附産經新聞宮城版に掲載せるコラムを平成貳拾壹年漆月拾伍日文語文に翻譯せるものなり)
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