「日・清 海の戰ひ」 その三
威海衞夜襲及び北洋水師の降状 稻垣 直
黄海々戰に敗北せる清國艦隊は一旦旅順港に遁入せるも、戰勢に迫られてその本來の根據地たる威海衞に逼塞するに至る。
我が聯合艦隊、威海衞に迫り種々誘出を試みたるも敵艦隊の出撃无し。然らば我より侵入して是を撃滅す可く水雷艇を以て夜襲せむとの議起る。たゞ敵軍港奧深く潛入して雷撃を行ふは世界戰史上未だ嘗て有らざる壯擧と謂はんよりは寧ろ暴擧に幾く、水雷艇隊に些か逡巡の氣有り。聯合艦隊參謀長鮫島員規少將是を叱咤激勵して敢へて行はしむ。即ち餠原平二少佐率ゐる第一艇隊、藤田幸右衞門少佐の第二艇隊、今井兼昌大尉の第三艇隊の計一五隻の水雷艇是が擔任たり。
明治二十八年二月五日の拂曉、先づ第二、第三艇隊の一〇隻、第一囘の夜襲を行へり。
未だ日出以前なれば暗さは暗し敵砲火の反撃もありて、港内進入後は稍混亂の感有り。一方に今井司令坐乘の「第二二號艇」の如く雷撃に成功せる艇もあれば、他方、坐礁その他の事故に依りて空しく退卻する艇もあり。或は、鈴木貫太郎大尉指揮せる「第六號艇」の如く敵艦に肉迫せるも魚雷凍結して發射管を出でざる例もあり(夫にも拘はらず鈴木大尉は勇戰敢鬪したりとして″鬼貫″の異稱を呈せらる。之全く虚名を博するなり)。かくの如く全體として成績不良の感无きを得ず。然るに天明後、望見するに敵旗艦「定遠」の大破擱坐せる事實認められ、望外の成功と關係者一同欣喜の態を成せり。
次で翌六日未明、第一艇隊に依る第二囘襲撃行はる。響導艇「第二三號艇」は波浪の勢を借りて防材を乘越え港内に入りて襲撃に成功。續く大形の裝甲水雷艇「小鷹」(排水量二〇三噸)は三發の魚雷を發射するを得たり。爾餘の諸艇の活動は概ね前夜の夫に近し。この第二囘の攻撃に依りて敵巡洋艦「來遠」を顛覆せしめ更に「威遠」、「寶嶷」の二艦を撃沈す。
敵提督丁汝昌は旗艦を「定遠」より「鎭遠」に移し、尚後圖を策するも將兵服せず。遂に降伏を決意し、二月十二日「廣丙」艦長程璧光を砲艦「鎭北」に駕せしめ我が旗艦「松島」に至りて伊東長官に請降書を呈す。長官是を受諾するとともに丁提督慰藉の爲シャンパン一打その他若干の酒菓子を程特使に託して贈る。翌日程璧光喪衣し砲鑑「鎭中」に乘りて「松島」に再來、悄然として告げて曰く″丁提督は中將の好意に感謝せるもその後自決して最期を潔くせり″と。
曩に「鎭遠」艦長林泰曹、「定遠」艦長劉歩蟾孰れも艦隊の悲運を歎きて自死せるに由り、北洋水師は爰にその幹部三名を盡く喪ふに至れり。たゞ是を一〇年後の日本海々戰に於ける露將ネボガトフの降伏して猶恬然たるに比すれば霄壤の差あり。蓋し玉碎を尊びて甎全を恥づるは東洋道徳の精髓と謂はん歟。
猶言及す可きは伊東中將の大度量なり。即ち程璧光及び劉公島道臺牛昶(ちよう)鳳(へい)に諭して、丁提督の棺を搬するに運送艦「康濟」を以てせしむ。その爲同艦を鹵獲艦船中より除去せり。是亦帝國海軍の歴史に一光彩を添へたるものと謂ふ可し。
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