侃々院>[日・清 海の戰ひ]その二 黄海々戰 稻垣 直 |
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「日・清 海の戰ひ」 その二 黄海々戰 稻垣 直 豐島沖の一戰に先づ敵の鋭鋒を挫きたるもその後彼我孰れも朝鮮半島への陸兵輸送を事として主力間に會敵の機無く 伊東長官以爲(おもへ)らく速やかに敵艦隊と決戰し、進みて渤海灣を制せんと。依つて聯合艦隊の主力を率ゐて出撃し海洋島の近傍を經たる後威海衞・大連・旅順・太沽・山海關等の沖を巡航する事を企つ。 九月十六日、大同江口の錨地を出で翌十七日海洋島附近に至れるも敵影を見ざるにより、針路を北東に轉じて滿洲南部大弧山沖なる大鹿島錨地に向へり。然るに午前十時五十分水平線上に煤煙の揚るを認め、次でその數一條より忽ち數條に達するを見て敵艦隊の接近を確認す。 たゞ是を以て偶發的なる とまれ日・清兩國海軍の精鋭激突の時機は刻々と迫れり。 時に彼我の陣容を一瞥すれば、我は高速巡洋艦「吉野」を先頭とし、「高千穗」、「秋 津洲」、「浪速」の三艦續行して第一遊撃隊を形成、坪井航三少將「吉野」を旗艦として是を指揮す。續く本隊は「松島」、「千代田」、「嚴島」、「橋立」、「比叡」、「扶桑」の五隻より成り聯合艦隊長官伊東祐亨中將の直率する處たり。更に武裝商船「西京丸」、砲艦「赤城」の二隻を隨伴す。「松島」以下の四艦は 又、決戰兵力とは稱し難き劣弱の「赤城」竝びに「西京丸」を帶同せし理由如何。「赤城」は排水量六〇〇餘噸の小艦なるもその吃水淺き爲、同艦を沿岸淺海面の偵察に利用せんとの意圖を有せるを以てなり。「西京丸」は正規の軍艦には非ざれども是には聯合艦隊の戰鬪状況視察を名目として軍令部長樺山資紀中將、參謀伊集院五郎少佐を伴ひて坐乘す。從ひて清國艦隊の進撃を 次で清國艦隊の態勢を敍せん。北洋水師堤督丁汝昌は「定遠」を旗艦とし、その姉妹艦なる「鎭遠」との二隻を中核として全艦隊を鶴翼に開き、長蛇の如き我が單蝎陣に東方より迫り來たる。その右翼を端より數ふれば「揚威」、「超勇」、「靖遠」、「經遠」の四隻。又、左翼は「來遠」、「致遠」、「廣甲」、「濟遠」の四艦なり。更に北方よりは巡洋艦「平遠」、「廣丙」の二隻、水雷艇二隻を率ゐて接近しつゝあるを見る。 今や正に戰端は開かれんとす。此の日天氣晴朗なれど恰も沛然たる驟雨の到來せるが 如き感あり。 彼我の距離約六〇〇〇米に達せし時「定遠」先づ發砲すれども我は應ぜず、第一遊撃隊は速度を一四ノットに保ちつゝ三〇〇〇米前後に迫りて初めて砲門を開く。本隊も是に倣へり。射撃は敵艦隊右翼に集中せられ、「揚威」、「超勇」の二艦は忽ち大火災を起して「超勇」先づ沈沒し、「揚威」は大鹿島方面に遁走中坐礁するに至る。因に「超勇」の 名は高宗雍正埆治下の驍將ツェレン ―超勇親王― の名に基く歟。日・清ともに人名を以て艦の名稱と爲す事莫きも「超勇」のツェレンに由るとせば一の例外と稱す可きなり。 曩(さき)に述べたる「平遠」等の一隊も加はり來たり、戰ひ漸く その他壯絶なる戰鬪を演ぜしものとして砲艦「赤城」を擧げざる可からず。即ち敵彈雨飛せるに依つて艦長坂本八郎太少佐戰死し、航海長佐藤鐵太郎大尉代りて指揮を執りて猶も死鬪を續け遂に虎口を脱するを得たり。「西京丸」も亦損害を被る事「赤城」に劣らず。命中彈一二發を算し、殊に舵機を破壞せられし爲操艦意の如くならず、この状を見たる清國艦隊中の都司(吾ガ少佐又ハ大尉ニ相當)蔡挺幹はその指揮せる水雷艇「福龍」を驅つて迫り來り魚雷二發を投射せるもその效无し。遂に約四〇米に迄接近、再たび雷撃を繰返すも同じく中らざるに由り「西京丸」窮地を逃れて根據地に歸投するに至れり。 「鎭遠」艦長林泰曹(曾)は才幹拔羣、南宋の勇將岳飛の再來と謳はれて總兵(吾ガ少將ニ相當)の地位に在りしが、この状を見て切齒し、その三〇糎砲を以て我が「松島」を狙ひ射たしむ。巨彈誤またず「松島」に命中、折しも甲板上に山積せる裝藥に引火して大爆發を起し、砲臺長志摩(しま)清直大尉以下二十八人戰死、その他六十八人負傷の慘状を呈す。かの「未ダ沈マズヤ定遠ハ」の名句を以て一世を風摩せる「勇敢なる水兵」 ―三等水兵三浦虎次郎― の出現も正にこの機に在り。黒煙全艦を覆ひ隱し、望見せる者をして一時は「松島」沈沒を疑はしむる 是に反し第一遊撃隊は快進撃を續けて「經遠」を撃沈、更に他の諸敵艦に 斯くして黄海々戰の幕は降り、我が聯合艦隊は集結したる後、翌日には威海衞周邊を慓索せるも敵影を見ざるに由つて歸途に就けり。 本戰鬪を概觀するに、我はその高速力を以て敵艦隊の周圍を巡りつゝ猛射を浴びせ續け、終始優勢を維持したるも末期に旗艦「松島」の大損害を受けたるに由り、その後は戰績乏しく稍龍頭蛇尾の感無きを得ずと謂ふ可し。後年の日本海々戰の利刃一閃して亂麻を絶つが如き快勝には比す可くも非ず。然れども兩者の損耗を較ぶれば、彼が「揚威」、「超勇」、「致遠」、「經遠」、「廣甲」の五艦を喪ひ、旅順港に 以上の點より見れば日本側の勝利として可なり。しかも是に依つて黄海の制海權は全く我が手に歸し、大山巖大將の率ゐる第二軍は直接遼東半島に上陸するを得るに至る。 猶、本海戰の行はれし位置を賤記すれば、伊東中將を「ヤールー・イトウ」と渾名せる如く、黄海の洋心と謂はんよりは寧ろ朝鮮半島西岸鴨緑江口と云ふ可きも、日本側にては「黄海々戰」と稱せり。 * ヤールーは“鴨緑”の意。支那側にては本海戰を「鴨緑江口(又ハ大東溝)海戰」と呼ぶ。 ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |