侃々院>[日・清 海の戰ひ]その一 豐島沖海戰 稻垣 直
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「日・清 海の戰ひ」 その一 豐島沖海戰 稻垣 直


 佐世保出撃後一兩日を經たる七月二十五日の早朝、坪井航三少將率ゐる第一遊撃隊「吉野」、「秋津洲」、「浪速」の三艦は本隊に先行して仁川近傍の豐島沖に達す。折しも東北方より清國軍艦「濟遠」、「廣乙」の二隻航し來るを見る。午前八時近くに至り、兩艦の接近するを俟ちて我が「吉野」機先を制して砲撃を開始す。是、外相陸奧宗光の言「外交ニ在テハ被動者ノ地位ヲ取リ、軍事ニ在テハ常ニ機先ヲ制セム」を實行するものと稱す可き歟(か)。
たゞ最後通牒は已に送付せられたる後なれども未だ戰火を交ふるに至らざる刻なれば砲臺長吉松茂太郎大尉稍躊躇の色あり。砲術長加藤友三郎大尉是を叱し敢へて發砲せしむ。清國の二艦直ちに應ぜしは言を俟たず。
この日天候晴朗なれども處々に海霧あり。「吉野」は無煙火藥を用ひしが他の諸艦は然 らず。爲に射撃による砲煙も加はりて視界甚しく昏昧となる。濛氣稍收まるに及んで「濟 遠」は逃走の形を執り、「廣乙」は南方に進むの状認められたり。即ち「吉野」、「浪速」は「濟遠」を追ひ、「秋津洲」は「廣乙」に向ふ。「廣乙」東方に逃れ遂に朝鮮西岸に坐礁し剩(あまつ)さへ火藥庫爆發して艦は廢棄せらるゝに至れり。
一方、「吉野」、「浪速」は只管ひたすら「濟遠」を逐ひ、殊に「浪速」は「吉野」に先んじて「濟遠」に迫りたるが、忽ち見る英國々旗を視げたる一商舶の清國小軍艦を伴ひ來れるを。該清國軍艦は「濟遠」よりの信號を受くるや蒼惶反轉して戰場を逃れんとするも「吉野」に追及されて降伏。「秋津洲」の鹵獲ろくわくする處となる。是清國砲艦「操江」なり。
「浪速」は坪井司令官の命を受けて英國商船の臨瑁に向ふ。信號してその停止及び投錨を命じたる後、端艇を出し人見善五郎大尉、藁谷年實少機關士を派して詳細を瑁せしむ。處は朝鮮西海岸蔚島(ショバイオール島)近傍なり。船長トーマス・ライタル・ゴールズワージー檢問に應じて曰く″該船は英國船籍にして「高陞かうしよう號」と稱し、清國政府の需めに應じ、清兵一二〇〇、砲一四門を輸して朝鮮牙山に至らんとす″と。仍て「浪速」に隨行を命じ、彼一旦は應諾せるも尚躊躇の氣あり。再度の端艇派遣を請ふ。人見大尉再び「高陞號」に至りて状況を聽くに船長曰く「清兵我ニ迫リテ貴艦ヘノ隨行ヲ不可能ナラシメントス」と。斯くして要領を得ざる裡に時間を空費する事三時間になんなんとす。この間に敵新勢力の出現を懼るゝ氣分も漸く生ずるに至れり。
「浪速」艦長東郷平八郎大佐遂に決斷して是を撃沈せむとす。最初の魚雷は途中浮上して效果无きもそれに次ぐ砲撃に依つて「高陞號」須臾の間に沈沒。「浪速」は第一第二の端艇を出し船長等幹部を救助す。清兵の大部は溺沒し、辛うじて命を保てる者百數十名に留まる。又、同船に便乘せる獨人フォン・ハネッケン大佐も救出せられたり。
英國船撃沈さるの報一度び英京倫敦(ロンドン)に達するや民衆の激昴一時は旺なるも、著名の國際法學者兩名に依る「浪速」の所行しよぎやうを支持する聲明出でて漸次鎭靜に向へり。
是を要するに豐島沖海戰は海上戰鬪としては規模小なるも、最後に「高陞號」撃沈の報至りてその國際問題化するを惧れたる伊藤博文以下政府首腦の周章狼狽するの寸劇を添へたるものと謂ひ得可し。
更に重大視す可きは、若し「浪速」の攻撃を免れ得て清兵一二〇〇、砲一四門の無事朝鮮半島に到達するを得ば、成歡の戰鬪の勝敗も亦逆賭す可からざるに至らんとするの一事なり。蓋し我が軍緒戰の一勝は實に「高陞號」撃沈に依つて齎らされたりと謂ふ可き歟。


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