侃々院>[日本海海戰記 ]稻垣 直 |
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[日本海海戰記] 稻垣 直 惟ふに日本海海戰は曠古の大戰にして、その戰績の空前にして絶後なる可き事は贅 言を要せず。たゞそれに至りたる爲には可成りの苦心あり。 先づ擧ぐ可きは、その根據地たる朝鮮半島鎭海灣に於ける射撃訓練なり。二月下 旬、東郷長官は鎭海灣に入り、爾來、海戰の生起せし五月下旬迄の約三ヶ月、長官自 身早朝旗艦を出でて訓練場に至り、夕刻歸艦する事を習慣として訓練を督する事約 三ヶ月。その間一日の缺勤も無しとの超人的努力を爲せり。その結果、命中率の向上 には驚く可きものあり。驅逐艦、水雷艇の雷撃演習の旺なる事それに劣らざるも亦言 を俟たず。 次に擧ぐ可きは婆爾的(バルチック)艦隊の進路判定なり。その最終目的地たる浦 塩斯徳(ウラヂオストーク)に至らんには對馬、津輕、宗谷の三海峽の孰れかを通過 せざる可からず。宗谷海峽は狹隘にして濛氣多く、大艦隊の通過は殆ど不可能に近き が故に問題とするを要せざるも、津輕海峽は然らず。此處も亦海流その他より見て難 點尠からずと雖も無視する能はず。婆艦隊が我が方の豫想に反して、一向に東支那海 方面へ出現せざるを見て、GF司令部に於ては津輕海峽に赴きて邀撃す可しとの所謂 「北進論」油然として湧起し、一時はGF首腦部の殆どが北進論に傾き、第二艦隊參 謀長藤井較一大佐及び第二戰隊司令官島村速雄少將の兩人、之に對して強硬なる反對 論を唱へ、又、東京の大本營よりは”濫(みだ)りにそこ−鎭海灣−を動く可から ず”の警告あり。衆議紛紜して歸する處を知らざりしが、五月二十六日午前○時五 分、上海領事松岡洋右より大本營經由にて婆艦隊の假裝巡洋艦及び運送船八隻の呉淞 (ウースン)入港を報じ來る。是を以て婆艦隊の未だ東支那海に在るを推測し得て北 進論消滅し、全艦隊は對馬海峽にて待機する事に決せり。折しもあれ、二十七日午 前四時四七分より數次に亙り成川揆(なるかははかる)大佐指揮の哨艦「信濃丸」よ り無線報告あり。これを綜合するに「敵艦隊見ユ。敵ハ對馬海峽東水道ヲ通過セント スルモノノ如シ」と。これ實に日露の勝敗を別つ可き運命の一報と云ふ可し。附近に 在りて同じく哨戒に任じたる巡洋艦「和泉」、これを傍受して六時四五分より觸接を 開始す。 たゞ是を評して”「信濃丸」は午前二時四五分、敵を發見し居たるに通信を發せる は四時四七分。その貴重なる二時間、何を爲し居たるや”の声あり。「信濃丸」とし ては、敵らしき船舶を發見せるは午前二時四五分なるも、確認の爲暫時同航、天明に 至りて自己が婆艦隊の中に在るを知り、蒼惶脱出して安全域に逃れたる後、發信せし ものと答ふ可し。かくして飛電一度び到れば全艦隊に戰氣漲り、正に山雨來らんと 欲して風樓に滿つの概あり。GF司令部先任參謀秋山眞之中佐、大本營に報じて曰く 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃滅セントス。本日天氣晴 朗ナレドモ波高シ」と。これ實に千古の大文字。就中、結句の「本日天氣晴朗ナレド モ波高シ」は頗る國民の好尚に投じ、爾後、各處に引用せられて今日に至れり。たゞ 是にも批判あり。″秋山は己が文才を鼻にかけ、徒(いたづら)に美辭麗句を弄し 云々″と。 とまれ、東郷長官は全艦隊に出動を命じ、その時迄、陸上との連絡の爲に獨り鎭海 灣内に止まれる「三笠」に坐乘、前進増速して既に出航せる第一戰隊の先頭に立つ。 時に出動艦隊の全容を眺むれば、第一戰隊「三笠」、「敷島」、「富士」、「朝日」 の四大戰艦と裝甲巡洋艦「春日」、「日進」の計六隻先頭に立ち、上村彦之丞中將は 第二戰隊「出雲」、「吾妻」、「常盤」、「八雲」、「磐手」の裝甲巡洋艦五隻をを 率ゐて續航、更に瓜生(うりふ)外吉中將の第四戰隊の巡洋艦「浪速」、「高千 穗」、「明石」、「對馬」の四隻殿軍となり、その他通報艦、水雷戰隊の諸艦艇はそ の間に適宜に位置して、艨艟四六隻對馬海峽に現はるゝを見ゆ。 鎭海灣を出でたるは午前七時なるも、索敵に時を費し、遂に午後一時三九分、婆艦 隊の姿を望見するに至る。爾後、接敵運動を續け、一時五五分、著名なるZ信號旗を 掲げ「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ。各員一層奮勵努力セヨ」の大號令を麾下全軍に達 せしむ。實に龍攘虎搏の激鬪須臾の間に開始せらるゝを豫告するが如し。次いで南西 微南に進路を變じ、敵の北東に進むに對して反航戰を挑むが如く裝ひしが、二時五 分、急に取舵を執つて左折す。これ史上に特筆さるゝ敵前大囘頭なり。たゞ是を以て 彈丸雨飛下の冒險の如く喧傳するは當らず。この時の彼我の距離は八〇〇〇米にして 三〇糎砲の射程内にはあれども命中率は未だ低く且露艦隊の遠距離射撃術の拙劣なる 事、この時の我が艦隊速力一五ノットなるに對して婆艦隊のそれは約一〇ノットなる 事その他の諸要素を算入しての冷靜なる判斷なり。血氣に逸りたる豬突猛進には非 ず。 抑(そもそも)東郷長官の眞意は我が優越せる射撃術力を以て敵に潰滅的打撃を與 ふ可く、近接せる竝航戰の状況を齎らしむるに在りと推察さる。此の爲、敵前大囘頭 時機は本來の丁字戰法としては遲きに失したるなり。這は後日、東郷長官自身の意を 承けたる佐藤鐵太郎中將の言より明らかに看取せらる。 たゞ敵先頭を抑壓する如く運動する際、豫め策定せる丁字戰法に合致せる處あるに 由り、世上″丁字戰法を以て戰局を勝利に導きたり″の聲を高からしむるに至るもの と思はる。 東郷長官の企圖は適中せりと云ふ可し。その嚮導艦砲火集中の方式に依り、敵旗艦 「スウォーロフ」、「オスラビア」の兩者は大火災を起してともに列外に出づ。二番 艦「アレキサンドル三世」先頭に立ちしも是亦我が砲火を浴びて炎上落伍し、三番艦 「ボロヂノ」嚮導艦となり一旦南方に進路を轉じ、隙を見て再び北方に航せんとす。 我が第一戰隊、第二戰隊は時に離れ、時に近づき、敵も亦陣形潰亂して彼我の描く航 路は複雜多岐となるに及べり。顧みるに敵の砲火を開きたるは午後二時八分にして、 我の應ぜしは二時一〇分。その後激鬪數刻に及び、五時前後一旦離隔せるもそのまま にては敵艦隊殲滅の意圖を到底達する能はざるを以て極力附近海面を搜索せる裡に、 天なる哉、「ボロヂノ」 を先頭に「ニコライ一世」、「アリヨール」など殘艦主力 の單縱陣を以て航行するを發見す。時に午後六時六分なり。再び砲撃戰開始せらるゝ に、「アレキサンドル三世」先づ殪れ、次いで「ボロヂノ」も大爆發を起して沈沒、 その生存者一名のみの慘状を呈す。その後間もなく日は歿して、第一、第二戰隊は殘 敵の撃滅を夜襲部隊に委するに及べり。 たゞ用兵上敢へて問題とす可きは上述の如く敵主力部隊の覆滅に腦裡を占有せら れ、萬一浦塩に竄入せんか其處を根據地とし日本本土周邊海域にて通商破壞戰を實施 する虞れある巡洋艦部隊への對策を疎(おろそ)かにせし事なり。倖ひにして敵巡洋 艦群「オレーグ」、「アウローラ」。「スウェトラーナ」、「アルマーズ」、「ヂェ ムチューグ」、「イズムルード」に戰意乏しく、その半ばは南方に遁逃し馬尼羅(マ ニラ)に到りて武裝解除せられ、一は北進中に航路を誤りて擱坐、殘れる二艦中の一 隻は我が攻撃に依りて沈沒、浦塩に遁入せるは損傷を蒙りたる一艦のみと云ふ状態と なりて自滅せるは、東郷長官が後日詳報せる處に云ふ天佑神助の一と爲す可き歟。 さて筆を轉じて再び主力部隊の末路を敍せん。日沒に及んで東郷長官直卒の砲戰部 隊戰場を去りし後、水雷戰隊の夜襲開始さる。 前年(明治三七年)八月一〇日の不面目を挽囘す可く、各艦必死必殺の猛襲を敢行 せり。時に午後八時。北方よりは第一驅逐隊「春雨」、「吹雪」、「有明」、 「霰」、「曉」、第二驅逐隊「朧」、「電」、「雷」、「曙」、第九水雷艇隊「蒼 鷹」、「燕」、「雁」、「鴿(はと)」、東方よりは第三驅逐隊「東雲」、「薄 雲」、「霞」、「漣」、第四驅逐隊「朝霧」、「村雨」、「朝潮」、「白雲」、第五 驅逐隊「不知火」、「叢雲」、「夕霧」、「陽炎」、更に南方より第一艇隊「第六 七」、「第六八」、「第六九」、「第七〇」、第一〇艇隊「第三九」、「第四〇」、 「第四一」、「第四三」、第一五艇隊「雲雀」、「鷺」、「鷂(はしたか)」、 「鶉」、第一七艇隊「第三一」、「第三二」、「第三三」、「第三四」、第一八艇隊 「第三五」、「第三六」、「第六〇」、「第六一」、第二〇艇隊「第六二」、「第六 三」、「第六四」、「第六五」の肉薄せるを見る。夜闇に加ふるに波浪尚高く、些か 混戰亂鬪の傾向あるも、奮戰六時間余。戰艦「ナワリン」、「シソイ・ウェリー キー」、裝甲巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」、「ウラヂミル・モノマフ」の四艦は 大損傷を蒙り、翌朝相次いで沈沒するに至る。もとより未だ次發裝填裝置も無く、文 字通り一艦一撃の方式なれば、艦艇多數群りたるもその戰果はこの程度に止まりたる を如何せん。 明くれば二八日、前日の如き濛氣その迹を絶ち視界廣闊、敵の一艦たりとも北方へ 脱走を試むれば直ちにそれを視認し得る状態となれり。敗殘の敵艦隊は「ニコライ一 世」、「アリヨール」、「アドミラル・アプラクシン」、「アドミラル・セニャー ウィン」の四隻、單縱陣を作り、巡洋艦「イズムルード」は「ニコライ一世」の右側 を進む。部隊の指揮は婆艦隊の次席指揮官ネボガトフ少將これを執れり。我が方の一 部隊は同日早朝既に是を認めたるも、第一戰隊を率ゐる東郷長官自身は午前九時半に 至つて漸くネボガトフ部隊を發見するに至れり。而してその際の状況よりして、我が 大勢力を以て包圍したる後、彼の自滅を俟つに如くはなしとの企圖を生ず。暫時砲火 を浴びせつゝ敵状を望見するに、ネボガトフ降伏を決し麾下全艦隊に令して機關を停 止せしむ。その後、彼我の使節往來して降伏の儀終り、かくして大勢は決し、爾後は 殘敵掃討の段階となれり。即ち各處に小規模の戰鬪を見るのみにて二日に亙る日本海 海戰は我が方の完勝を以て終局に達す。 たゞ茲に特筆す可きは艦齡二十年に垂(なんな)んとして「ウラヂミル・モノマ フ」とともに婆艦隊の最長老と稱す可き裝甲巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」(排 水量六二〇〇屯、備砲一五糎砲六門)の猛鬪なり。二七日に於ける晝戰及び夜戰にて は損傷を免れたるも、僚艦とも別れて獨り北方に逃れんとするを二八日午后六時近 く、瓜生中將の第四戰隊(巡洋艦四隻)に發見せられ、更に「音羽」、「新高」、驅 逐艦「朝霧」、「白雲」の來會するあり。これら多數の日本艦に包圍されて激鬪日沒 に及ぶも屈せず、その状正に我が『平家物語』中の齋藤實盛を髣髴たらしむるものあ り。その後、夜陰に乘じて鬱陵島の淺瀬に至りて自沈、乘員の大部は同島に上陸して 溺沒を免れたり。抑ドミトリー・ドンスコイは、ロシア史上の英雄にして、蒙古人と しばしば戰ひて勇名を馳す。その負へる名に背かず、同艦の壯烈なる最後は婆艦隊中 の華と稱す可く、『ロシア海軍史』も是に對して讚辭を惜しまざるなり。孤軍奮鬪遂 に圍を破るを得ざりしも以て瞑す可しと謂はん歟。 如上を綜合して最後に一言を加へん。 前年八月一〇日の旅順艦隊との決戰に於ける不成績に鑑みて改良に改良を加へ、以 て日本海海戰に臨みて空前の偉功を奏し得たりとは東郷長官自身の繰返し述ぶる處、 吾人豈これを銘記せざる可からざらんや。 この奇蹟的大勝に依りて日露戰爭は我が完勝の形に導かる。維新より僅か三八年、 新興の意氣に燃ゆる青年日本は一躍して世界列強の班に列するを得るに至れり。 ▼「侃々院」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |