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桶谷秀昭著 「日本人の遺訓」を讀みて 市川 浩


 名著「昭和精神史」の著者此の度書き下ろしの新著「日本人の遺訓」、讀了清涙を禁じ得ず、博く江湖の諸賢にも本書の御一讀を願ひて、拙文を草し文語の苑サイトに掲ぐるものなり。 本書題名にある「遺訓」、現今通常の意味合ひに必ずしも通ぜず、纔かに橋本左内、西郷南洲の項に例へばそれぞれ「啓發録」、「遺訓」の引用に通行の形を見る而已。然あれども殘る大多數はむしろ生涯を綜括するの境地心情を敍して人生の覺悟を問ふ。「遺訓」たるの所以なり。


 本書に載する先人、序に謂はゆる「はりねずみ族」三十四人、その最初は日本武尊、著者その國思歌を引く。


命の 全けむ人は 疉薦 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に插せ その子
愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち來も



の二首本書の主題を提示す。「くまかしが葉を うずに插せ その子」と、古代人のかなしくも優しき心ばへをかくも直截に歌ひたるをば二千年後の左記太宰治の『冬の花火』よりの引用に響かせ、現代日本人には最早幻想となりたる「人偏に憂ふと書く“優しさ”」の恢復を呼び掛く。


氣の合つた友達ばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植ゑて、ラジオも聞かず、新聞も讀まず、手紙も來ないし、 選擧も無いし、 演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覺して氣が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を 愛して、さうして疲れたら眠つて、そんな部落を作れないものかしら。


 三十四人其の生涯必ずしも本意を遂ぐるに非ざるが多きゆゑにや、本書には此の二首にあるかなしき調べ通底しをり。然あれどもなほ大伴家持の「顧みはせじ」と「顧みしつゝ」との「くりかへしが迷ひとならずに心を太らせる」「重層的な意識」の指摘あるを讀まば、この「かなしみ」も亦「愛(はし、をし)」「哀(あはれ)」「悲(かなし)」の文字を宛つる重層的のこゝろにして、もののあはれとも、或は川端康成より引く「日本古來の悲しみ」とも、我が民族の精神を育み來れること、アルキロコスの詩篇より引用の「はりねずみが一つだけ知つてゐる」「でかいこと」なりと諒解せらる。  昭和三十四年永井荷風今はの日記六日連續して「正午大黒屋」の五文字のみなるを引くあり。けふも先生の御いでぢやとていそいそと晝餉の支度する大衆食堂の主人と、その豚カツを食して五文字を記す老文豪との間に「古來のかなしみ」戰後なほ確かに存するを證す。今に至りてこれを失ふを奈何せん。近時識者頻りに愛國心を論ず。得擇ばざる自國の榮光をも汚辱をもなべて愛(かな)しむ心を説くの寡きを淺ましと見るにつけて、


彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿彌陀佛とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひ たるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまをす


と親鸞より引用し、また保田與重郎が路傍に合掌する老婆に見送られ、病躯を押して戰地に趨き、戰後の不遇を耐へてなほ日本古典の精神の蘇りを求め續けたるに思ひを馳する著者の「かなしみ」に共感を覺ゆなり。


 世に「百人一首」を始め、歴史上より類を聚むるの撰數多ある中に、「本朝二十四孝」、「三十六歌仙」などその數に三、五或は七の倍數あること多し。本書の三十四、孰れの倍數にも當らず違和感無しとせず。敢て思量せむに、この數三十六に二足らざるは即ち缺番を二つ設けあるには非ずやと。而してその一は著者其の人、その二は讀者自身なるべし。


 本書は書肆の求めにや「新漢字」の印行なるも、固有名詞には正漢字を用ゐ、假名はルビに至るまで歴史的假名遣を貫徹す。三十四人中歿年戰後に及ぶは五人、何方も終生「新かな」を排す。按ずるにこれ偶然の符合に非ず。醇乎として高貴なる日本精神を愛しむ著者、これを正統の國語に據りて語り繼ぎ、書き繼ぎゆかむと訴ふ、正に渾身の「遺訓」なり。吾人讀者克くこの叫びに應へざるべけむや。


(平成十八年五月三十日)


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