侃々院>[讀後感](加藤淳平著 丸山眞男批判序説 ― 占領軍の洗腦に荷擔した覆面の走狗達)市川 浩
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[讀後感](加藤淳平著 丸山眞男批判序説 ― 占領軍の洗腦に荷擔した覆面の走狗達) 市川 浩


「月刊日本」六月號に加藤淳平氏御寄稿の表記論文感銘深く拜讀申候。讀後の感想申上げたく候。


大東亞戰爭に勝利せし聯合國の日本處理政策の如何に周到なる、また如何に巧妙なる、半世紀を經て今日漸く露はるゝに至れり。而してその史上類を見ぬ程の成功の裏に吾人は二つ彼に於ける僥倖、即ち我に於ける不運を見る。


其の一は加藤氏御指摘の「占領軍の洗腦に荷擔した覆面の走狗達」の存在にて、その眞の目的を「民主化」、「經濟成長」の名目にて完全に隱蔽し得たるは寔に彼にとり稀有の僥倖たりしこと疑を容れず。然りと雖もかかる徒輩は戰後初めて出で來たるに非ずして、戰前既に尾崎秀實を始めとしコミンテルンの意嚮に副ひて文筆その他に暗躍したる知識人尠からず。これ等知識人才智殊に勝れ一流大學を成績優秀にて卒業すと雖も、國恩に報ずるの念なく、卻つて共産革命に投ずるを以て己が使命となしたるは我の不運とこそいふべけれ。明治天皇夙に宸襟を惱ませ給ひしこと、東京帝國大學に臨せられ「理科、化(學)科、植物科、醫科、法科などは益々其進歩を見るべしと雖も、主本とする所の修身の學科に於ては曾て見る所なし」と元田永孚謹記せる「聖喩記」に見ゆ。


其の二は彼我の文化の差を彼は克く稽へて明く、我は學び思はずして罔かりき。嘗て幕末開國の砌、國際法に馴染薄かりけるにや、治外法權など不平等なる事ども組入れられ、これが改訂に先人辛酸を嘗む。ポツダム宣言受諾には「subject to」の解釋に就き激論ありたるも、占領條件の詰不十分の譏免れざるは、我武士道文化敗者の潔さを尚ぶとはいへ、我の大いなる不運なりき。これに乘じ大坂城の「惣掘」宜しく擴大解釋を恣にせしは彼の大いなる僥倖といふべし*1。一方我が文化には國の爲身を鴻毛の輕きに置くの美風あり、大戰中には七千人に垂とする尊き特攻戰死者を算ふ。然るに彼の理不盡なる言論統制檢閲三十項目は吾人最近之を知る。當時一人の鳥居強右衞門も出でざりしを憾むは豈吾人獨りならむや*2


されど日米同盟は我國外交最後の據り所たること言を俟たず。過去、日英同盟及び蒋介石總統との日華關係我國を裨益せしこと如何に大なりしか、之を失ひて初めて其の價値を知る。然るに我が國人なほこれを等閑に見る傾きあるを憂ふ。識者頻りに其の軍事の面に於ける片務性など難ずるも、其の文化的役割を論ずるの寡きは畢竟我が知識人和漢洋の均衡を失するの弊なりと言ふべし。洋の蘊奧を究 めたりとも其上に和漢の風無くば焉んぞ日米の上に對等の文化協力あらむや。和漢の學に固陋無きにしもあらずと雖も先づ其失地恢復は吃緊の要なり。昨今國語の正統表記を主張實踐の士、其の出自意外に西洋文學、自然科學など洋學に發するの例多き、いみじきことにこそ。彼の狡猾なる奸計に陷りたるは悔みてもなほ餘あるも、今日その詭計の全貌を精査し、我が國文化崩潰の眞因を突止め、日本再生の道を探らざるべからず。今囘の加藤論文は委曲を盡して日本洗腦の計畫と實行の詳細を剔抉しありて近來の快論たる、「文語の苑」會員各位に薦むるの所以なり。


擧例せしは十分人口に膾炙したる史實なれど、最近教科書も載する尠くなりぬれば、敢て解説下記の如し


*1 慶長十九年大坂冬の陣の後、和議の印として外壕を埋む。この時本多正純外壕を「惣掘」と稱するに乘じ「惣」は「總」なりとて殆どの堀を埋め、豐臣滅亡を早む


*2 天正三年、長篠城武田勝頼に圍まれ、鳥居強右衞門勝商(かつあき)命を受け重圍を脱して岡崎に至り徳川家康に援軍を請ふ。吉報を携ふる歸途勝頼之を捕へ、援軍は無しと復命せしめんとす。勝商表面は諾ひ、長篠城下に歸るや信長家康の援軍必ず來ると大音に叫ぶ。言ひも果てず勝頼方に殺されけるも城中これを聞き意氣大いに上り遂に勝頼を破る


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