侃々院>[弓馬文書(ゆまもんじょ)]愛甲次郎
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弓馬文書(ゆまもんじょ)  愛甲次郎


 先に宗元会において鹿島神宮参事萩原継男氏の弓馬文書に関する講演を聴く。その概要次の如し。

1. 倭人(やまと)天(あま)族と大和朝廷
 紀元一世紀前後、五島列島博多を拠点に山東半島東岸より朝鮮南部、瀬戸内海、難波、三輪(大和)に至る広大なる交易圏を成せる倭人天族てふ一部族ありき。これ元来縄文人と同族にしてDNA を共にす。されど氷河期終り数千年にわたり海洋民、内陸民夫々に分れて生活様式、言語を異にするに至れり。倭人天族は稲作と鉄の文化を持ち、弥生時代に大君の下大いに栄ゆ。
 中国の史書に同族の記述あり。「倭人は帯方(今のソウル辺り)の東南、大海の中にあり、山島によりて国邑を為す。もと百余国、漢の時、朝見する者あり、今、使訳通ずるところ三十カ国」(魏志倭人伝)、「楽浪(今のピョンヤン辺り)海中に倭人あり、百余国に分かれて相争ふ」(漢書)、「倭国はいにしへの倭奴国にして…代々国交をなす、…四面の小島に五十余国ありて皆倭国に属す」(旧唐書)
 後大和の三輪族、稲作、鉄の技術を取得して一大脅威となるに及び、その打倒と征服を断行、後に崇神天皇として知らるる大君、大和朝廷を樹てぬ。360年頃のことなり。大和は本拠地なる九州と離れたれば二王朝並立の体制を採る。
 その後7世紀白村江にて唐、新羅の連合軍に未曾有の大敗を喫したる天智天皇、律令体制による国の強化を図り、次の天武天皇の時、藤原不比等の策を容れ、立国の理念書として記紀の編纂を企つ。記紀の編纂者建国の時期を釈迦・孔子に遡らすることにより之を権威づけむと、崇神東征に替へ紀元前660年の神武東征を設定し、かつ、二王朝並立の事実を隠蔽す。


2. 弓前文書の秘匿
 倭人天族の大君に仕へし中津弓前なる一族あり。「大君の質(ただし)に答ふるを以て家の業とす」。紀元前300年頃祖霊コヤネより下されたる霊理を伝ふ。七世紀初頭聖徳太子の頃その末裔香取神宮神職弓前値名(あてな)、倭人天族の母語なる弥生語によるその口承を漢字を用ゐて文字化し弓前文書となす。万葉仮名にも似たるものなり。当時渡来人の力を借り弥生語の口承を文字化すること蘇我氏など屡之を行ふ。渡来人、作業に当たりて朝鮮語の文法もて補ふこと常なり。而して弥生語には無き助詞なども採用せらるるに至る。
 大和朝廷記紀の編纂にあたり弓前文書の記述(特に古事記神代巻冒頭十七柱)に全面的に依存す。されど前述の如く政治的理由により大幅なる改竄を余儀なくせられ、その結果弓前文書自体は秘匿さる。
 秘匿せられたる弓前文書は一族の九条今野氏之を後世に伝ふ。今野家故あって後に岡山に移り江戸時代に藩主池田候に同姓を名乗るを許さる。文書は京都所司代により封印せられしが、明治二年に至り開封さる。更に平成五年弓前六十七代にあたる池田秀穂氏自ら解読し之を世に出す。


3.
 弓前文書は四章より成り、各章は夫々四節より成る。全体は神文及び委細心得の二部より成る。古事記冒頭の十七柱の神はこの第一章より出づ。されど弓前文書に記されたる漢字と古事記に記されたる漢字とは、百年の年月の経過も之あり、異なるところ少なからず。
 例ふるに
  天照大神    オオヒルメムチ   アオピルメムチチ 
  大国主神    オオナムチ     アオナツムチヂ
  素盞鳴     スサノヲ      スサノィヲ
  武甕槌神    タケミカツチ    タケピカツチ
  経津主神    フツヌシ      プツヌチ
 学者の多くは、最も左の奈良時代に当てられし漢字の神名よりその神を解明せんとす。解明せらるる筈もなし。最も右に挙げたる名は既に失はれし弥生語によるものなれば当然と言ふべし。弓前文書の神名(最も右)を弥生語を以て解読すれば往時の宇宙観自づと現れ出づ。


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