侃々院>[近衞上奏文]解説 市川 浩
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近衞上奏文解説 市川 浩



■第十五囘


 尚コレハ少々希望的觀測カハ知レス候ヘ共モシ是等一味カ一掃セラルルトキハ、軍部ノ相貌ハ一變シ、 米英及重慶ノ空氣或ハ緩和スルニ非サルカ。元來米英及重慶ノ目標ハ日本軍閥ノ打倒ニアリト申シ居ルモ、 軍部ノ性格カ變リソノ政策カ改マラハ、彼等トシテモ、戰爭ノ繼續ニ付キ考慮スル樣ニナリハセスヤト思ハレ候。 ソレハトモ角トシテ、此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、 非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。


 「希望的觀測カハ知レス候ヘ共」、「觀測カハ」と係助詞「カ」あるゆゑ、「候」と連體形にて結び、 「希望的觀測カハ知レス候モ」とすべきところ。なほ、「知レス(れず)候」の「ス(ず)」は打消の助動詞「ず」 の連用形なること注意すべし。「思ハレ候」はこれまでの書法ならば、「被思候」。文末の「御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候」も 係結の構文ゆゑ、「願ハシケレト奉存候」又は「願ハシク奉存候ヘ」とすべきところ。


               以上


此の上奏文の前後の史實を參考までに示す。


 前年(昭和十九年)十一月七日、リヒヤルト・ゾルゲ及び尾崎秀實の死刑執行さる。 昭和二十年本上奏文以降の和平工作は三月國民政府との所謂繆斌工作不調に了り、四月五日小磯内閣總辭職の 日ソ聯日ソ中立條約延長破棄を通告、後繼の鈴木内閣にて七月ソ聯への近衞特使派遣を決意するも ソ聯事實上拒否と孰れも成らず。戰後同年十二月六日連合軍近衞文麿逮捕を命令、同十六日自決。


あとがき


 敍上見たる如く近衞は三度宰相の印綬を佩びて、困難なる國際情勢の下にて國政を運營せんとしたるも、 ゾルゲ・尾崎の謀略に敗れしを悟り、方針轉換の急務たるを上奏せるものなり。然れども時既に遲く此の後の半年間、 我が國民は甚大なる損害を被り、遂に未曾有の悲慘なる敗戰を迎ふるに至れり。


 尾崎秀實は昭和十六年十月逮捕の後、取調に對し詳細なる手記を翌十七年春には提出せりと言ふ。 上奏文まで徒に空費せし三年の歳月を憾むるは豈解説子のみならむや。


 飜つて按ずるに今日の國情、經濟の疲弊に加へ、イラク、北朝鮮など國際的にも難問山積し、 第一次近衞内閣當時の情勢に酷似せざるや。危機にありては詭激の論兔角冷靜穩健の策を卻くる傾きあり。 今日も「改革」の叫び頻りなるあり。これに便乘し我國傳統の美風良俗を破棄せむとする論言論界に間々あるは、 その背後に國家衰亡の企圖を疑はしむ。此の上奏文を後車の誡として活用あらば近衞公も泉下に安んずるあらむと斯くは 候文の例題に採上げたる解説子の意圖諒察せられむことを希望す。


          (完)


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