加藤淳平 - 日本の文化傳統、如何にして切斷せられしや(後篇)- 二十四
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日本の文化傳統、
     如何にして切斷せられしや(後篇)
                  加藤淳平


二十四 停滯の十年


 一九八〇年代の日本、特に後半の「國際化」熱は、「戰後思想」の日本社會浸透の隈なく進み、そが呪縛力の頂點に達したるを示す。此の時期に無益なる歐米投資進みたるは、「戰後思想」の歐米至上視あればこそなれ。「戰後思想」の日本否定は、日本古來の文化傳統の破壞を決定的とせり。日本の工業力を發展せしめたる民族的活力、燃盡きぬ。「戰後思想」に因りて、現實を見る眼を覆はれたる日本人、持續的好況の終らんとせるも、近隣アジア諸國の經濟的擡頭も、豫見し能はざりき。


 一九八〇年代より九〇年代に掛け、日本の經濟的挑戰、第二次大戰の敗戰に次ぐ第二の敗北を喫す。 最大の敗因、日本人が心中の歐米至上觀なり。教育と言論を通じ、心の奥深く對歐米劣等感を注込まれたる日本人、 歐米と對等に戰ひ得ざるは明かなるべし。


 一九九〇年代は、日本經濟の敗北と停滯の十年なりき。 日本全體の對外損益を巨視的に見るに、對歐米不動産投資、企業投資の損失等、損失は收益を大幅に上回る。 近年の金融自由化に因り、日本の金融機關、自動車産業等、外資に買占められしは、周知の事實なり。 國内經濟の所謂泡沫(バブル)崩潰し、景氣を刺戟せんが爲に、政府は財政資金を費して、公共事業を實施せり。 日本銀行は金利を低下せしめ、金融を緩和す。財政赤字膨み、低金利恒常化せるも、景氣低迷續けり。多數の企業倒産し、 被雇用者の賃金上昇せず、雇用は減少す。漸く二十一世紀に入りて、近隣亞洲諸國、就中中國の經濟發展に裨益せられ、 景氣上向くも、いくばくの日本人、そが中國等、近隣亞洲諸國の發展の恩惠なるを意識せるや。


 一九九〇年代の日本、改革を政治的合言葉とし、政治、行政、經濟等の制度變革續けり。 選擧制度改變せらる。行政官廳數削減せられ、名稱亦變更す。小泉内閣の、長く國民の支持を維持せるは、 改革を旗印に掲げたるに因る。但し歴代内閣の實行し來りし改革・變革、日本の政治・經濟・社會の状況を、 改善せりと確言し得るや。


 泡沫彈け、日本經濟の停滯に陷るも、泡沫經濟以前の樂觀的言説に、反省の色無し。


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