愛甲次郎◆紀行八ヶ岳合宿
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『紀行八ヶ岳合宿』(平成二十二年三月五月) 愛甲次郎


  第二回


 翌朝起きて窓外を覗ふに夜來の雪は既に消え失せたり。夜のうちに氣温著しく上昇せるを知る。五時より早朝瞑想の豫定なれば早目に和室に赴きて待つ。例の如く四十分の瞑想の後皆再び寢室に戻りて休憩す。
朝食時食堂のガラス戸越しに望めば、雜木林を越え彼方に雪に白き甲斐駒岳を見る。昨夜は我一行の他客無く、食堂は貸切に等し。食事はわが家の夕餉より豪華なりと評せし客もあるやう刺身つきの贅澤なるものなり。夕食のときの如く料理の半分のみを食ふ。
食後瞑想一坐の後、會議室に移りて神智學につき一くさり講ず。神智學の歴史とその後世に殘せし影響について述べ、またその導入せし諸觀念特にチャクラ及びアストラル體、界等につき概説す。十一時半には山莊の前に竝びて迎へのジャンボタクシーを待つ。前日とは打つて變りたる好天にして眩きばかりなり。氣温も上がりてダウンのジャケツは卻つて荷物と化す。
林を拔けて暫く走ればやがて巨大なる橋の深き谷に架かるを見る。渡りて左手に展望臺あり。下車して皆で記念寫眞を撮る。高原大橋と稱するなり。右手には雪に輝く八ヶ岳連峰聳え、正面には甲斐駒、左には遠く富士山を望む。空には雲一つなし。ここより清里を目指して更に坂を上る。十字路を左折して進めばほぼ直線の道路は清泉寮へ至る。他に車なく、宛も米國の國立公園の中を走るが如く、清々しきこと限りなし。清泉寮より一段上の見晴し良き場所に廣大なるレストランあり。案内せられて窓際の最も眺望の良き場所を占む。ここよりは正面に秩父の連山を見る。以前來たりし折は氣附かざりしが、やや手前に佛像の如き巨岩の羣立する山塊あり。加藤大使學生時代山岳部に屬せりとて山の知識あり、かれ水晶等を産する有名なる瑞牆山なりと言ふ。カレーライスを注文す。ここの牧場にて製するベーコンを添へたり。案内の石井氏これより清泉寮に向ひて逸品とせらるるソフトクリームを試みむと提案す。然るに食堂を出づる際池田女史慌しく賣店に寄りてソフトクリームを求む。蓋し石井氏の提案を聞き漏らせるなるべし。清泉寮に下りて石井氏クリームを求めて一を余に與ふ。兩方を食せし太田大使によれば比較して寮のもの遙かに美味なりと言ふ。一同「慌つる乞食貰ひ少し」と池田女史を揶揄す。
次いで車はひたすら山を走り下り、赤松の林を拔けてやがて身曾岐神社に著く。この神社は高度成長期に東京の下町にありし神社の、區劃整理を機に信州に移りしと傳ふ。多額の補償金を得てこの一帶の最も氣の良き地を選びて新しき宮を建立せる由なり。境内は廣く、氣に滿ち、池、能舞臺を備へ、大社を號するも可なり。型の如く參拜するも、敢へて願事をなすことはせず。
次に訪れしは繩文時代の遺跡なり。當時この邊りは鏃に適したる黒曜石を多く産し、他地方との交易も盛んなりし由。竪穴住居の復元なども備へたる小さき公園なり。礎に坐し、孤立する杉の梢を渡る風を聞きつつ暫し憩ふ。
最後に立ち寄りしは、往時部落間の爭ひを避くるため用水を平等に三分割せる仕組みなり。傾斜ある林の中に泉あり、上手より小川これに注ぎ、泉の他の三面より分れて流れ出づ。四角に區切りたる泉の中に臼ほどの石柱置かれ、水流これに當たりて、等水量になるべく調節せらる。石柱の場所を適切に選ぶことにより三分相等しきを得。裝置は江戸時代のものなれど技術は信玄より傳へたりと聞く。下車せる場所よりかなり離れたる道端にて互に氣の治療を爲しつつ迎への車を待つ。乘車後ややあつて池田女史先の場所に忘れ物せし旨遠慮勝ちに言出づ。列車の時間までは餘裕大いにありとて直ちに引返す。果たして道路の縁石の上に女史の貴重なる眼鏡は鎭坐せり。
小淵澤驛には特急の發車時刻約三十分前に到著す。待合室にて待つうちに場内案内あり、特急は事故のため運休となれる旨告ぐ。三十分後に豫定する各驛停車に乘り甲府に至り、甲府發の特急甲斐路に乘るが上策とのご託宣なり。已むを得ずこれに從ひ移動す。しかしながら不幸中の幸甲斐路は空席多く、隣合せのボックス二つを占領するを得て、攜帶せるウィスキーを開けて俄仕立ての酒盛始まる。かくて思ひも掛けず、遲延を氣にする事更になく怪氣炎のうちに新宿に辿り著けり。



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