文撰閣>大町桂月『一簑一笠』 解説:谷田貝常夫
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一簑一笠          大町桂月


丹後の宮津


夏の日本海、波浪眠りて、席(むしろ)よりも平らかなるに、伯耆の境港より乘り たる船は、いと大なる志賀の浦丸、浮世をば星よりも痩せたる漁火に認むるのみに て、見渡すかぎり源漫たる青海原、船の進みに風さへ一層加はりて、涼しと云はむよ りも、むしろ冷かと云ふべき甲板の上の心地よさ。やがて月ものぼりぬ。清風朗月一 錢の買ふことを用ゐず、玉山自から倒れたるは、人の推せるに非ずと云へる李白の詩 を朗吟しつゝ、へさきの甲板に横臥すれぱ、満身風露、吟魂自から清く、遠く下界を はなれて、月の都にのぼりゆくかとばかり疑はる。船の浪を破る音に誘はれて、うと うと眠り、眠りては覺め、覺めてはまた眠りて、夜のほのぼのとしらむ頃、船は残月 を帯びて・宮津湾に入りぬ。


一帯の白砂青松は、これ名だゝる天の橋立、むかし何物の風流男か日本三景の一に數 まへけむ、浦島子が龍宮に榮華を極はめしかど、さすがに住みなれし故郷のなつかし くて、この地にかへり來りしも、うベなりや。われも多年夢寢に見しところ、今快き 夏の一夜を日本海上に過して、曉風殘月と共に現に眼前に見る、あゝこの時の我が心 持、何にかたとへむ。


(解説 谷田貝常夫)

〈いつさいいちりふ・簑笠つけて〉、と題せるこの紀行文の筆者大町桂月は二十歳 半ばにして「帝國文學」の編輯委員となり、その〈詞藻欄〉に擬古文風の美文、新體 詩を載せたりなどす。古語をこよなく愛する文章家になりたるは、生れつきの吃音な りしゆゑ、吃音とかかはらぬ文章作りに力を入れ、その努力の末のことと言はる。兒 の二人も吃音なりしか、次のごとき書翰を殘せり。


拜啓仕候。昨日酒匂の御別邸へ參り、二兒をひきとり申候。洵に幼少のものを二人ま で永々御願申し、さぞ御骨折の事と恐縮に堪へず候。二兒事御かげさまにて年來の吃 音なほり、世にもうれしきことの限りに候。(中略)取敢へず手紙を以て御禮申上 候。


晩年にいたり生來の旅好きより紀行文を專らとす。本編がその代表ともいひうべ く、名文の案内にて共に舟の上の旅を味讀されむことを。


冷風が膚を撫で、月ののぼるにつれて酒仙李太白詩の的確なる聯を思ひ泛べらるる は當時の名文家の素養ゆゑなるか。


・・・・・ 君不見晉朝羊公一片石 君見ずや晉朝羊公の一片の石 龜龍剥落生苺苔 龜龍剥げ落ちて苺苔の生ずるを 涙亦不能爲之墮 涙も亦これがため墮つる能はず 心亦不能爲之哀 心亦これがため哀しむ能はず 清風名月不用一錢買 清風明月は一錢の買ふを用ゐず 玉山自倒非人推 玉山自から倒るるは人の推すにあらず ・・・・・ 襄陽歌(樂府)


晉書に載る羊公の民に慕はれし事蹟をふまへ、偲びて建てし石碑の歳月に毀れ落ち たる姿を哀しみし情景なり。其を思へば、この襄陽(湖北省襄陽縣)は樂しみの地な り。


清風や明月は誰のものにてもなく、限りなく樂しみうれど一錢も不用なり。


晉のケイ康の醉ひ伏せる姿は玉山に似たれど、それも自からのことにて、人の押 し倒せるものではなかりしが如く、我も酒にて醉ひ伏す。


李白の襄陽歌は全篇ことごとく人生の愁ひと酒の樂しみとを手を代へ引用をかへて 唱ふ。さる注記にいはく、「太白の寓言は皆酒なり。云ふ、功名富貴は到頭夢の如 し。物に因りて懷を興すは、何ぞ清風明月に對して酒を飮みて自ら樂しむに如かん や、と」 晩年酒仙の境に達せりとさるる大町桂月が李白の詩を愛せることかくの如 し。


桂月は日本の山水全てを紀行文に描きとらむと志せしが、むろんかかる大望は果し うべくもなかりき。南國高知の生れながら、東北の十和田湖を殊のほか愛し、そを廣 く世に知らしめし功績あり、自らも十和田湖を好みて籍を移し奧入瀬蔦温泉を墓所と して歿す。


日本の紀行文は、紀貫之の「土佐日記」を嚆矢とし、以後千年以上にわたり多くの 者がものしきたりし文章形式にして、日本人の紀行文好きは世界に冠たるものと言ひ 得む。殊に能、狂言に道行きは不可缺と言ふべし。


紀行文は旅の記述なれば地名は必須なれど、さらに紀行文は一人稱で書かるるべき ところに特色あり。しかるに日本語は主語をあまり表に出さぬ。右の本文を見ても、 「我が心持」以外、一人稱の代名詞は一切出ぬ。紀行文を讀む樂しみはかかる文章の 工夫にもあらむ。


ケイ=(Unicode 5D46)


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