文撰閣>明治の小説1 森鴎外『舞姫』(1890)より 解説・加藤淳平
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明治の小説1 森鴎外『舞姫』(1890)より


 菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪の如きウンテル、デン、リンデンに来て両邊なる石だたみの人道を行く隊々(くみぐみ)の士女を見よ。胸張り肩聳(そび)えたる士官の、まだ維廉(ウィルヘルム)一世の街に臨める窗に倚(よ)り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍(かおよ)き少女(をとめ)の巴里(パリ)まねびの粧(よそおい)したる、彼もこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青(チャン)の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲(みなぎ)り落つる噴井(ふきい)の水、遠く望めばブランデンブルグ門を隔てて緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多(あまた)の景物目睫の間に聚(あつ)まりたれば、始めてここに来しものの応接に遑(いとま)なきも宜(うべ)なり。


 或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシュウ街の僑居(きょうきょ)に帰らんと、クロステル巷(こう)の古寺の前に来ぬ。余はかの燈火(ともしび)の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷(こうじ)に入り、樓上の木欄(おばしま)に干したる敷布、襦袢(はだぎ)などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太(ユダヤ)教徒の翁(おきな)が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯(はしご)は直ちに樓(たかどの)に達し、他の梯は窖(あなぐら)住まひの鍛治が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠(ひっこ)みて立てられたる、この三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。


 嗚呼、委(くわし)くここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしはこの折なりき。我一身の大事は前に横(よこたわ)りて、 洵(まこと)に危急存亡の秋(とき)なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹(そし)る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇(さっき=不運)を憐(あわれ)み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢(びん)の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしをいかにせむ。


解説(加藤淳平)= 言文一致体の日本語文は、明治時代の中頃(1880年代後半)に現れ、その後20年くらいは、文語文との共存状態が続き、1900年(明治33年)あたりを境として、少なくとも小説では、言文一致体が優勢となったように思われる。その間、あるいはその後も大正時代にかけて、さまざまな言文一致体の試みがなされた。文語文の方も一様ではなく、江戸風の戯作文から漢文調の文章、あるいは書簡の候文 まで、多様な文体が行われたが、少しずつ今われわれが考える、明治の文語文の文体が 確立して行った。この過程を推進した一人が、森鴎外である。

 森鴎外は1888年に、4年間のドイツ留学を終えて帰国し、翌年から文学活動を開始した。『舞姫』はその処女作であり、まだ文体も、言葉の使い方も、確定したとはいい難いが、描写の迫真力はさすがに鴎外であり、どれも鴎外自身の体験に基づくものではないかと疑われる。上には1880年代のドイツ帝国華やかなりしころの、首都ベルリンのウンター・デン・リンデン街の描写、主人公が古びたユダヤ人街で、女主人公エリスと初めて会った時と、両者が深い仲となる時の記述を抜粋した。

 高い建物やビルを楼閣あるいは楼(たかどの)、噴水を噴井(ふきい)、下着を襦袢、階段を梯(はしご)、地下室を窖(あなぐら)などと呼ぶ、西欧の事物を示す用語の現 代との違い、あるいは「いろいろの」、「遺跡」、「美しき」などの、現在でも使われている言葉が、やや異なる意味に用いられていることなど、違和感はあるが、この時代の日本人の、西欧の都市や人と接した感動と感慨を、今に伝え て余すところがない。


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